第8話 お陰様で……
一歩森へ踏み込むとぞくりとするような濃い瘴気に襲われた。再び戦場に戻ってきた気がして一瞬怯む。
しかし、後ろには、まだ見送るレオンがいるだろう。リアはレオンの視線から逃れるように足早になる。
すると追放されるのは自分なのに、なぜか彼をおいてきてしまったような不思議な感覚にとらわれた。
しばらく黙々と歩いていると、奇妙なことに気付いた。森は奥へ進めば進むほど瘴気が薄くなっていく。それどころか西の方から、瘴気を洗い流すような清涼な気が漂ってくる。
(これはいったい?)
リアはいつの間にか駆け足になっていた。森には魔物が住む気配はあるものの。濃い瘴気は奥へ入れば入るほど晴れてくる。西へ向かうほど、体が軽くなっていく。
脅威となるものが消えた途端、死地へ赴くようにこわばっていた肩から力がすっと抜けた。
森の奥から流れ込んでくる新緑の爽やかな香りを吸い込む。
すると腹の底から、強い衝動が湧いてきた。
「ふふふ。アハハハ!」
リアは唐突に笑い転げた。なぜだか笑いの発作が止まらない。ひとしきり笑うと今度は駆けだした。まるで風に乗ったように速く走ることが出来る。周りには彼女の奇行を咎める者はいない。
(惑いの森は瘴気の森? 一体誰が言いだしたの?)
ほどなくして、この森の構造に気付いた。西から清らな気が流れこみ、瘴気は東にあるアリエデ王国の結界付近に淀んでいるのだ。
「やったーー!! 私は自由よ」
結界を越え一歩森の中へ入ったとき濃く淀んでいた瘴気は、森の奥へ入り西へ向かうほど薄くなる。
たしかに魔物の気配もあるし、ところどころ濃い瘴気も残っているが、リアの脅威にはなりえなかった。これは森の中に入ってみた者でなければ分からないのだと思うとまた笑いがこみあげそうになる。
(護国聖女となったお姉さまも、カレンもきづかない。誰も知らない惑いの森の秘密。皆この森が瘴気に満ち満ちていて一度入れば待つのは死だと思っている)
戦場では食料が足りず狩りをすることもあった。最初の一年は物資が足りず自給自足の生活を余儀なくされたのだ。
リアは傭兵たちについて狩りをならい。食べられる木の実やキノコを覚えた。自給自足の生活ならばお手のものだ。
その上結界もはれるから、夜休むときは危険な魔物や盗賊も遠ざけられる。いいことずくめだ。
鼻歌を歌いスキップをした。追放から一転、こんな解放感を味わえるとは思ってもみなかった。国はリアの死を望んで、この惑いの森へ追放したのに……。
(お陰様で、私は自由です)
確かに仲間と信じて戦った皆に裏切られたのはショックだった。地下牢では食事ものどを通らずふさぎ込んだ。
いままでずっと王太子妃となって国をささえる努力をしようと思っていたし、ニコライに淡い恋心をいだいていた。それを思うといまだに胸がチクリと痛むが、もうあの国には二度と帰れない。帰らない。
(勝手に皆で幸せに暮らせばいい。私は私でこの森で自由で幸せな暮らしをする)
リアは早速食料の調達を始めた。この森は素晴らしい。誰にも荒らされていない自然の宝庫だ。魔物が出没することをのぞいてはだが。
アリエデ王国では高価で貴重なキノコが手つかずの状態で群生し、木の実が豊富になっている。いろいろ探してみれば、デザートのフルーツまで手に入るかもしれない。
リアは火をおこし、野営の準備を始めた。ただ一つテントがないので雨が降ると困ることに気付いた。雨露をしのげるテントがほしいところだ。
惑いの森は一度入ると抜けられないと聞いたが、今となってはこの話が本当かどうかも疑わしい。何せここにはアリエデ王国の者は数百年もの長きにわたり立ち入っていないのだから。
森から出られようが出られまいが構わない。小屋でも建てて永住しようか。などとリアは真剣に考え始めた。
少し気持ちに余裕の出てきたリアは、今度はレオンが心配になってきた。罪人に餞別など渡して大丈夫だろうか? 彼にこの森が安全だと知らせられたら、いいのに。
追放されたリアは二度と故郷の地を踏むことは許されないから、彼の行く末を見守ることは出来ない。
リアが物思いにふけっていると近くの茂みでカサリとが音がした。
何かいるのだろうか? 獣?
「う、ううっ……」
苦しそうなうめき声が聞こえてきた。
ひょっこりと茂みを覗き込むと血だらけの男性がうつぶせに倒れていた。
リアは慌てて、茂みを越え、そばに走り寄る。彼の体には魔物にやられたと思われる傷が無数にあり、背中の肉を一部抉られていた。
出血がひどく、意識がもうろうとしている。このまま出血が続ければ、間違いなく彼は死ぬ。すぐにヒールをかけた。
しばらくすると男性の呼吸が規則正しいものに変わる。どうやら一命はとりとめたようだ。
「具合はいかがですか?」
男性に声をかけるも時々低くうめき声は上げるだけで、まだはっきりと意識は戻らない。傷は塞いだものの血が足りないのだろう。
それに彼にはあまりヒールが効いていないように感じる。こんなことは初めてでリアは不安になってきた。
(私は罪人となって、精霊の加護を失ったのだろうか。多くの人を恨んで心が濁ってしまったの? だから、傷ついた人をきちんと癒せない……)
フリューゲルの心ない言葉を思い出し、リアは悲しくなった。信心が足りないから、この人を完璧に治癒できないのだろうか。
男性の血で汚れた顔を丁寧に拭うと、白い肌とすっと鼻梁の通った端整な面立ちが現れた。男性が微かに身動ぎをする。
「……ありがとう、随分気分がいい。……早くここを離れろ」
苦しそうな声、長いまつげの間から、焦点が定まらないサファイヤのような青い瞳がのぞく。
「え?」
「魔物の群れがいる……。逃げろ……」
自分は動けないのに、相手の身を先に案じる彼の言葉に、リアは驚いて目を見はった。傭兵には時々こういうタイプの人がいたが、自国の兵士や騎士にはいなかった。しかし、身なりから彼が傭兵とは思えない。
ここは国境で隣国との緩衝地帯、彼は二つ接する隣国のどちらかの人だろう。言語が同じなので分からない。
「おい、娘、何をぼうっとしている。逃げないか!」
苦しそうにそれでも声を振り絞り、リアに危険が迫っていることを警告する。そんなことに体力を使わなくていいのにとリアは切なく思う。
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