袁紹へのさらなる嫌がらせと廃帝劉協の毒殺

 さて、董旻たちが籠城した袁紹たちを包囲して一ヶ月ほど経過した。


「ようやく攻城兵器が届いたか」


 董旻が言う通り、攻撃部隊の所へ、城門や城壁の上によじ登るための梯子車はしごしゃ雲梯車うんていしゃ、屋根付きの破城槌である衝車しょうしゃ轒轀車ふんおんしゃ、攻城塔である井闌車せいらんしゃ、壕に架橋する壕橋車ごうきょうしゃ、後ろの荷台に土砂を載せて堀を埋めてしまう填壕車てんごうしゃ、梃子の原理で大きな石を放り投げる大型投石機や、全高約2.4mの攻城弩などめちゃくちゃ金のかかっている大型攻城兵器にくわえて、個人用の投石紐や杖つき投石紐、油壺や便壺、クズ米や精米に失敗した稗のはいった壺なども大量に届いたのである。


 ちなみに火計のために油の入ったツボを敵陣へ投げ込むための投弾帯を持った歩兵などは元からそれなりにいたが、これはそこまで遠くに飛ばすことを目的としたものではなかった。


「ではまず便壺とクズ米や稗の壺から城内に投げ込むか」


 董旻がそういうと黄忠が笑う


「ひどい嫌がらせですな」


 フフッと董旻は答えて言う。


「兄上が送ってくれたものだ、きっちり使うべきであろう」


 鎧を装備している兵が少ない状況では投石紐による小石の投擲は馬鹿にならない殺傷力を持つが、両手を使い杖のような棒を用いて大きめの石や壺などを投げられる個人用の杖つき投石紐は攻城戦で使うには安価で大量生産も可能なことから、古代・中世では兵器としても使われた場所もある。


 日本では室町期から戦国期にあった投石攻撃は印地打ちと呼ばれ、手で直接投げる場合や手ぬぐいなどの長い布を使って石を飛ばすこともよく行われていたりする。


 もっとも漢は遊牧民に対抗するために弩という強力な射撃武器があったことや、それを十分に運用できる程度には鏃の生産を行う能力があったこと、そもそも投石紐は戦車や馬上では使うのが困難、広い平原では小石の補充が意外と大変で、小石を持ち歩くのは矢筒にまとめて入れられる矢よりも不便で兵士が持ち歩ける数が少ないことなどもあってさほど使われていなかったが、日本でも「投弾帯」と呼ばれる投石紐と同形態の物が弥生時代の遺跡から出土しておりこれは大陸から持ち込まれたものだと思われる。


「これから糞便は全て城の中へ投げ込むように」


「了解!」


 たまらないのは城郭の守備兵である。


「ぎゃあ! また降ってきやがった」


 今までは昼夜の区別なく矢が降ってくる“だけ”だったが、それに混じって糞便やクズ米などが投げ込まれるようになったのである。


 しかも史実において曹操が4月に補給線を断つと5月には鄴城の住民の過半が餓死したが、現状の鄴城でも一般市民は飢えに苦しんでいた。


 もともと鄴がある魏郡の人口は70万ほどだがその首都である鄴は12万という大都市であり、更に逃げ出してきた袁紹の兵士や元々の守備兵も加えれば、それに兵士が3万ほど増えているので、一ヶ月も経てば飢餓状態になるのは目に見えていた。


「くそお! クズ米や稗まで投げ込んでくるのは嫌がらせか!」


 そして城内では流言が流れていた。


  董卓の元から逃げ出してきた廃帝劉協はいまだに贅沢な食事をしており袁紹や郭図も同様であると。


「そういえば、あの廃帝は稗粥など食えるかと言って逃げ出してきたらしいぞ」


「俺たちはまともに飯も食えないで餓死しそうなのに許せねえ」


 この流言を聞いて郭図は袁紹へ進言した。


「廃帝が贅沢な食事をしていることに、住民が不満を持っているようです。

 もはや役に立つこともなさそうですし毒を食わせて始末するべきでしょう」


「そうだな、牢に入れておる者たちもついでに始末してしまえ」


 こうして廃帝劉協は毒殺され、王允や蓋勳たちも同様に毒殺されて、その後を追わされたのだった。

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