飢饉時の一般の食べる物、霊帝の食べる物

 さて、現在の一般庶民の食事が済んだらこんどは農作業の様子を見て回る番だ。


 俺が思っていたよりだいぶいい食事が出てきたのは今はそれなりに余裕が出てきて一般庶民もそれなりに良いものを実際に食べてるのか、天子に出すものだからとなるべく良いものをと選んで出したのかまではわからんがそれなりに忖度はしたんだろう。


 まあ俺も豚や犬、人肉を食いたいと思わんから偉そうには言えないが。


「ふむ、庶民が土を耕す様子を見るのか」


「はい、食べ物こそが国を維持するために最も必要なものでございますので」


 後漢の農業は春秋戦国時代と違い城塞都市の近辺だけで行っているわけでなくて、城塞都市以外の場所にも農民の民家が普通にあったりする。


 まあだから戦争が起こるとそういった連中は略奪を避けて逃げだすので、記録上の人口が大きく減るわけだが。


 農村の管理は大司農だいしのうの司る所で、現代で言えばこの役職は農林水産大臣のようなものだが、秦漢代では食料こそが国家の財政そのものに近かったのでそれを管理するのは大きな権限だったし、後に朝廷の物資の管理を行うようになった。


 元来は治粟内史ちぞくないしと称したが、前143年に前漢景帝により大農令だいのうれいとされ、前104年(太初元年)に武帝により大司農と改称された。


 一度漢が滅び新が成立すると羲和ぎわとされ、後に納言なごんと改称されたが、後漢が成立すると再び大司農に戻された。


 武帝の時代以降は、九卿の一つとされ結構大きな実権を持っていた役職だ。


 もっとも後漢末期では、財政官吏は尚書のするところになり、また各種財政・物資を管理する官が新たに設置され、大司農の職掌は縮小されて名誉職に近くなっていくのだが。


 そして実際に栽培されている作物だが中国は広大であり、華北と華南ではその気候も違うので当然栽培している作物も北と南では別だがその境界は秦嶺・淮河線、またはチンリン・ホワイラインと呼ばれるもので、伝統上これを境に、華南・華中と華北が別れる。


 そして気候が大きく異なると共に農業生産や生活習慣も大きく異なる。


 北は冬になると気温が氷点下に下がるので当然湖や川などが凍り、木は葉が落ちる。


 葉が落ちない常緑樹は針葉樹で降雨量が少なく、夏季に集中している。


 そのため川の水量が小さく、水位の変化が激しいし、氷が溶けるときなどに洪水が頻発する。


 南は冬になっても気温が氷点下まで下がらず、湖や川などが凍らないし、木は広葉の常緑樹葉だ。


 なので川の水量がもともと大きく、水位の変化も北に比べれば激しくないが、台風のような暴風雨の影響を受けることはある。


「ちょうど今は麦の収穫の時期でございますな、それが終われば水を入れ水田にして稲を育てるのです」


「うむ、よく実っておるようだな」


 邢州の南陽はちょうど淮河のある辺りなので気候はその中間だが米の栽培もできる場所で最近は水田の米麦の二毛作なども行われている。


 だが高低差の激しい場所ではそうは行かないので段々畑を人力で耕すことになる。


「あの者たちは何をしているのだ一人が耕しもうひとりは休んでおるが?」


「昨年休ませた土地を耕すのは大変疲れるため交代で休憩をしながら耕しているのです」


「二人とも働かせたほうが早いのではないか?」


「一見するとそう見えましょうが休みながらでないとかえって農作業は進まないのでございますよ」


「そういうものか?」


「そういうものでございます」


 後漢末の農業で特に畑は連作障害を防ぐために一度作物を収穫したら、その翌年の一年は休耕地として休ませて地力を回復させないといけなかった。


 もっとも連作障害があっても土地が十分でなくて、そこで栽培せざるを得ずどんどん作物が取れなくなっていく場合もよくあったようだが。


 しかし、地力の回復のためにと休耕地として一年の間土地を放置しておくと、畑の表面は相当固くなってしまい、雑草も生え放題だから、そのままでは当然作物を植える事は出来ない。


 このときの土起こしには土地が広くて金があれば牛馬にすきをつけて畑の土を掘り返させることが出来たが、段々畑のような狭い場所や牛馬を借り受けることが出来ない貧しい民の場合は二人一組で鋤を使い交代で畑を耕す耦耕ぐうこうをおこなっていた。


 牛馬は荘園を持つ豪族や領主などが専用の牧場でまとめて飼うもので、これを利用する農作業はそういった豪族などの荘園内でしかおこなわれなかったんだ、まあ俺が直接管理していて南陽盆地は平らな地形も多いこと南陽では牛馬の使用は比較的多いがそれでも全部の畑でそういう事ができるわけではない。


 もちろん牛馬とそれ専用の農耕器具を用いれば畑を楽に深く耕せるということはすでに知られていたから、中国全土で見てもそれなりに普及はしているのだが。


 鍬などの農具も木製や青銅製、鉄製など様々なものがあるが、鉄製の農具も結構使われるようになってきている。


 いわゆる五穀は米・小麦・大麦・あわひえきびなどに加えて大豆・小豆・麻などで合わせて九穀という場合もあったりする。


 そして粟は長い間中国大陸では主食だったが、これは小さな粒の粟は火力が弱い時代でも、短時間で火が通ったことも理由にある。


 穀物の現物を税として納付する場合も華北では粟で納付されるのが隋の時代ぐらいまでは普通でもあった。 、


 しかし連作や二毛作を行うと、地力を損ないやすいこと、小麦の粉食がはじまって麦のほうが美味しく食べられたことなどもあって主食の地位から転落しつつもあった。


 米と麦については説明は省く。


 ひえについて言えばでも水田でも栽培が可能で春に種をまき、初秋に収穫をするという意味では米と同じような感じ。


 日本各地に稗田という地名があり、また稗つき節も残っているように、古代から戦後まで、日本では稗は重要な穀物として栽培されてきたが、昭和期に米の増産に成功したことで消費と栽培が廃れた。


 稗は粟以上に粒が小さくしかも粟に比べて外皮が硬いため脱穀や精白に大変な手間がかかるし、実より茎葉の方がよく育つという欠点はあるが、牛馬の飼料に向く籾殻や藁が採れ、冷害、湿害、干ばつ、塩害、病害などに強く、長期保存も利き、栄養価も高い優れた穀類、そして味は米よりはるかに劣り、成熟も不揃いで、食感もぱさつくため、飢饉に備えた救済作物として栽培されている。


 黍も稗同様に乾燥にとても強く生育期間が短く収穫も容易だが、鳥害にとても弱いのが欠点。


 救荒作物としても適しているが、黍は薫り高く癖の強い黄酒の原材料として作られた。 


 またしっかり水を含ませてから炊き、温かいうちにすり鉢などで潰しながらこねれば餅状の物体になるがこれがいわゆるきびだんごであるが、あまり収量は多くなく唐代には高貴な身分の人間のみが食べられる特別な穀物となったりもするが。


 黍は独特の甘みをもっていて、人によってはそれを嫌う場合もあるが、豆類と一緒に炊き込むと豆の旨味を引き出しておいしいとされ、味自体はさほど悪くはないが粟や稗に比べると収量は多くない。


 なんで最悪のときに農民などが食べていたのは主に稗、それに食べられる野草や塩を一緒に入れて粥として食べた。


 もちろんそれがうまいはずはない。


 一方の皇帝が美食を取る事は進膳しんぜんと言われ、その為に作られる美食を御膳ごぜんと言った。


 そして皇帝の食事を司るのは太官令たいかんれいだがその地位は、政治的にもっとも高い宰相などに匹敵したと言われる。


 実際に厨房で働く料理人は庖人と言われて、作るメニューのレシピは食経と言われるのだが、その人員は、2000人以上は居たといわれ、この大人数は皇帝とその后や世子の食事の為だけに働いた。


 太官令は毒味を行う役目もありそれとは別に飲食長官の左丞、膳具長官の甘丞、酒長官の湯官丞、果実長官の果丞が各一人ずつ居てそれぞれが最善を尽くして皇帝などの毎日の食事を提供したのである。


 そして霊帝の母親の董太后は金に汚く、貪欲ではあったが浪費は好まないケチな性格だった。


 だが、霊帝は浪費大好きな人物で、毎日違う美食を食べることをもっとも楽しみにしていたし、庖人も飽きが来ないように毎日の献立に工夫を行っていた。


 そして皇帝や太后や皇后、世子に供出される料理はそれらの人物の食欲を大きく上回る量で作られ、それらは残る事を前提にしていた。


 そして一口二口だけそれぞれが口にしただけで、殆んどそのまま食べ残された料理は大臣や后以外の妃嬪、世子以外の皇子や公主(皇女)に与えられ、それでも食べ残された分は官女や宦官が食べた。


 董卓が洛陽に来てからめちゃくちゃ太ったのはこの皇帝の食べ残しをなるべく残さないように食べていたからだと思うし、士大夫が董卓を見限った理由の1つが董卓がそういった食事に関してのマナーなどを全く知らなかったからというのもあると思う。


 曹操はほとんど最前線にいて皇帝と同じ食事をするということをしなかったので董卓の二の舞になることはなかったようだが。


 なおこの頃の食事回数は、名目上は朝と昼の二回だが実際には夜にも食べ3回食事をしている。


 皇帝は暗殺の恐れなどもあったので独りだけで食べ、特に許可した場合以外は、 如何なる高官であれ、皇帝と食を共にする事は無かった。


 そして霊帝は胡食すなわち西方や遊牧民族の料理をこのんだ。


 民の疲弊はそっち退けで西から運ばれた胡瓜や胡麻(芝麻)、胡桃(核桃)、石榴、無花果、胡豆(蚕豆)などを宮廷料理に取り入れることでそれらの食材が定着した、粉食である胡餅や肉料理の羌煮、そして葡萄酒などを好んで食べた。


 また胡座あぐらや机と椅子の文化も霊帝は積極的に取り入れた。


 もっともこのときはまだまだ伝統を重んずる保守的な思想を持つものも多く、多くは正座で膳を用いて食べたいたのだが。


 そんな霊帝の皇子である、劉弁と劉協がどのような食事を子供時代から食べていたかは想像に難くない。


 なお後漢時代では箸はすでに一般的になっているが前漢では餐匙と呼ばれるレンゲのようなスプーンや餐叉と呼ばれるフォークのようなものを使うほうが一般的であった。


 そして、箸で菜肴をつまんで食べて、匙で飯を掬って食べるのが絶対規定でもあったりする。


 宮廷におけるその辺のマナーはめちゃめちゃ厳しいのだがそんなことをしてるから後漢は霊帝の時代に実質的に滅んだんだな。

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