とりあえず庶民飯を天子と一緒に食ってみたよ

 天子の行幸を実際に行うのは太僕である張邈の役目である。


 太僕は車馬の管理や牧畜、早馬による伝令から鹵簿(天子の行幸)を執り行うのである。


 秦や前漢においてはもっとも影響力の大きな官職の1つであり、前漢では30万もの馬匹を常時養っていたが、後漢ではその部門をほとんど廃止し、ほぼ名誉職という状態になっていた。


 実際に前漢やその前の秦ではかなりの数の騎兵が戦場に出てきているが、後漢ではかなり騎兵が減少している。


 馬の育成には莫大な金がかかるから仕方ないところではあるが。


 そして公式行事の場で皇帝の乗る馬車の御者は太僕本人が務める。


 張邈は史実においては曹操と袁紹と親しい間柄で、若い頃から男伊達で気前がよく、困っている者を救うための散財を惜しまなかった。


 そして反董卓連合を結成した張本人だったのだが、そこで袁紹が董卓を討つべく集まった諸侯に対し、驕った振舞いを見せた事があったため、張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。この時は、曹操が袁紹に取り成したため、難を逃れ張邈は曹操に対し恩義を感じるようになったという。


 しかし、曹操が袁紹の任命によって兗州刺史になったことで、曹操は袁紹との仲が悪くなった自分を殺しに来たと思ったようで呂布・陳宮と共に曹操に反旗を翻し、一時は兗州のほぼ全域を手に入れたが、荀彧・程昱・夏侯惇・棗祗らが守る3城だけは落とせず、、飢饉が発生したため、両者の争いは一時的に中断し、その間に勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。


 張邈は、陳留に居た弟らと分断されていたため、陳留の一族を救出しようと袁術に援軍を求めに向かったが、部下の裏切りに遭い殺されてしまった。


 なお後漢の天子による長安の未央宮への行幸は永和2年(137年)に順帝により行われ、永寿4年、延熹元年(158年)には桓帝も実施しており、それには庶民の慰撫や天子の権威を見せる意図があったようで、貧しい者たちに炊き出しで粟を配布しているが、霊帝はそのようなことをやっていない。


 なお霊帝は光和4年(181年)に宮廷内に模擬店をつくり、一番下級の宮女である采女に売り子の服を着せて商品を販売させ、霊帝自身も商人の真似をしながら宴会を催し、犬に文官が用いる冠をかぶせたり、自ら庶民が使う4頭立てのロバの車の轡を取って宮廷の園内を駆け回るなど、庶民のマネごとをする行為はしており、それに対して”後宮には采女が数千人もいて、その衣食にかかる費用は膨大である。民が災厄を受けているのに救済せず、無用の宮女が後庭に満ちているのは良くない”と諫言されているが霊帝はそれを気に留めることはなかった。


「では天子様、城下へ参りましょう」


「うむ、良きに計らえ」


 そして俺なども一緒に行幸を行うのだが……。


「うーん俺はもっと一般人に紛れて目立たないように市中を見て回ってほしかったんだがな……」


 さすがの天子の街の市場や農村の視察に関しては王允などに話さないわけに行かないので話したのだ。


「百歩譲って民衆の一般的な食事を食べてもらうのはまだ良いですが、天子がお忍びで徒歩ででかけるなどありえませんぞ!

 太僕の役目はこのようなときに果たされるべきではありませんか」


 それに対しては蓋勳も同意していった。


「天子に民の生活を実感していただくのはたしかに良いが、何も庶民と同じような格好をさせコソコソ隠れてまでおこなう必要はあるまい。天子には天子らしい行動を行っていただくべきだ」


「ああ、うん、そうかもな……」


 こうやって持ち上げるやつがいるから、天子に本当の意味での民衆の目線が身につくわけがないんだよな……。


 そして南陽城下の市を見て回った。


「なかなか賑やかなものだな。

 賑やかなのは誠に良いことだ」


 天子は機嫌よくそういった。


「誠にそのとおりでございます」


 と張邈などもうなずいている。


 そしてその後はお待ちかねの食事の時間だ。


 この時代はテーブルの大皿から取り分けるのではなく、ひとり一人に対して膳が置かれてそれを箸で食べるのだな。


「まずは豆漿とうしょうでございます」


 俺はそれを聞いて首を傾げた。


「ん? 一般市民でも皆今はこれ飲んでるのか?」


 俺の問いかけにこくりと配膳したものはうなずく。


「はい」


「そうかそれならいいんだが」


 漿(ショウ)と呼ばれる飲み物は豆乳やライスミルクのようなもの。

粉にした豆や米に水と塩を加えたものだな。


「なんだこれは? うまくはないのう」


 天子はそれを飲んで顔をしかめた。


「粉にした豆や米に水と塩を加えたものでございますが、庶民はこういった飲み物に蜂蜜や砂糖を入れられませぬからな」


「そうかいつもと違うのはそれであったか、ならば蜂蜜を用意せよ」


「ですので今回は庶民の食事を知っていただくのが目的でございますので、それは出来ませぬ」


「ふむ、庶民はこんなまずいものを飲んでいるのだな」


「はい」


 まあ豆乳は嫌いなやつは嫌いだしな。


「次は鶏肉の魚醤焼きでございます」


 俺はやはり気になって聞いてみた。


「今は民衆でもそれなりにいいもん食ってるのか?」


「いえ、豚や犬のほうが多いですが」


 あ、厠の大便を食わせてる豚や犬の肉のほうが安いけどまずいんだな。


「あ、ああ、鶏肉もまあ安い部類か」


 庶民と一緒のものを食うと言っても豚や犬や人肉はやっぱなぁ……。


 このあたりは俺への配慮もあるんだろう。


 そして実際食べるとどうやら鶏肉を魚醤に漬け込んで炙ったもののようだ。


「ふむ……これもあまりうまくはないのう」


 実際結構ぼそぼそしてるし、魚醤はチョット生臭い。


「鶏肉は脂の多い肉ではありませぬからな」


 現代と違って油で炒めるというのは青銅の料理器具のこの時代は出来ないし。


「朕は牛肉を食したいぞ」


「庶民にとって牛は大事な農耕用の家畜ですゆえ、そうそう食べられるものではございませぬ」


「そうであるか……」


 なんか結構不機嫌な感じになってるな。


 そして飯が出てきた。


「粟と麦と米の飯でございます」


 飯というのは穀物の事すべてを指すのでご飯と言っても米というわけではない。


 南陽では米も貴重品ではないが鉄の釜がない時代は炊くという調理法もないのだ。


「ふーむ、これもあまりうまくはないな」


「まあ、粟麦は特にそうですな」


 この時代に多く食べられているうるち粟は家畜や小鳥のエサに使うことのほうが多いが栄養価は抜群だったりする。


 ただし一年二毛作や輪作に向かないこと、ほとんど味がせず粥にしてもうまくないこと、脱穀しづらいことなどから主食の座から転落しつつある。。


 麦もまだ粉にして食べる習慣はあまり広まってないから蒸して食べるのだが、コメに比べて粘り気や旨味が全然無くて、やたらとぱさぱさぼそぼそするからやはりうまくはない。


 米はそれに比べればまだうまくはあるんだがこの頃の米は長粒種のインディカ種でいわゆるタイ米だからやはりパサパサしてるのと、中国の水はもともと水質が良くない上に硬水でカルシウムを多く含むので、余計うまくないんだな。


 調味料もいろいろあるんだが塩・酢・醤などはともかく砂糖とか胡椒のような香辛料のたぐいは高いからなかなか庶民の口には入らないし……。


「食後に棗でございます」


「うむ、まあこれはまだ」


「美味しいですな」


 棗は生で食べると、サクサクとしたリンゴやナシのような食感で、ほんのりとした酸味とともに甘みがあってなかなか美味しい。


 比較的簡単に手に入るのでよく庶民も口にする果実だ。


「これでもまだ良くなった方であるのか」


「ええ、だいぶ良くなったほうですね」


「これよりもっとひどい食べ物とは想像が出来ぬな」


「まあそうでございましょうな」


 次はもっとひどいときの献立だが天子はどのように反応するのかね。

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