献帝に庶民と同じ飯を食わせようとしたが……

 さて、何顒と伍瓊については俺の暗殺未遂の罪で腰斬刑のうえ棄市とすることが決まった。


 腰斬刑は死刑の中でも苦痛が絶大であるため、特に重罪人に対して執行される処刑法とされたものだ。


 周代の死刑には「車裂」「殺」「斬」の三種が存在し、車裂は罪人の四肢に縄と馬車をつないで馬車を急発進させ、体を裂くいわゆる「八つ裂きの刑」だ。


「殺」はいわゆる刀で首を切り落とす斬首、そして「斬」が腰斬刑で、秦においては二世皇帝の胡亥の不興を買った李斯が趙高に陥れられ、腰斬で処刑されている。


 腰斬刑に用いられる刑具は、「鈇鑕ふしつ」という、巨大な斧と木製の台で、木製の台の上に罪人を腹這いに横たえ、斧で切断するようにしたのだが、前漢の時代に台と刀身がつながった現代のオフィスで使用される紙の裁断機を大型化したような器具で罪人の胴を切断する「鍘」が開発されテコの原理が用いられた鍘で執行が容易になる上、切断された人体は刀身で「止血」される形になるため、罪人の苦痛が一層増すことになったがこの処刑方法は清の時代まで用いられている。


「やれ!」


「死ぬことなど怖くはないが、董卓を殺せなかったことは返すがえすも口惜しい!」


「先にあの世で待っているぞ!」


 周毖と伍瓊は史実では斬首、何顒は牢獄の中で自殺したと言われ、伍孚は董卓に返り討ちにされたと言われてるが史実より悲惨になっているな。


 彼らはそのまま市場で晒しにする。


 そして天子にはお忍びで街の市場や農村の様子など見て回ってもらい、民衆の一般的な食事を食べてもらうことを伝えたのだが……。


「なぜ天子である朕がそのようなことをせねばならぬのか?」


「一般庶民の生活の実態を天子にはこの際にお知りいただきたいためでございます」


「それはどうしてもせねばならぬのか?」


「はい、漢の高祖(劉邦)に対して儒者の酈食其が”天の重要さを知るものは王業を成し遂げ、知らないものは成し遂げることができない、君主にとっては民が天、民にとっては食料こそが天でございます”と説いたことをわかっていただきたいのです」


「そのものは高祖が嫌っていたものではなかったか?」


「いえ、そうではございません」


「わかった、ならば支度をさせるがいい」


「ありがとうございます」


 一応聞いてはくれたか。


 史実において興平2年(195年)に長安を出立して洛陽に向かっていた天子一行は李傕・郭汜・張済に攻められて敗北し、多くの大臣を失った。


 その時随行していた楊奉・董承は李傕らと講和するふりをしながら、密かに使者を河東郡に遣して白波賊の頭目である胡才・李楽・韓暹・去卑らを呼び寄せそれぞれ数千騎の軍勢を率いて参陣して天子を奉じ、董承・楊奉とともに李傕らと戦い、これを打ち破って首級数千を挙げた。


 しかしその後に、李傕の追撃を受けて大敗し、献帝は董承の用意した船でなんとか黄河を渡ったが、舟が少なく宮廷の公卿と百官はそこに置き去りにされた。


 もちろん置いていかれて死にたくない百官は舟に追いすがるが、それによる舟の転覆を恐れた董承は矛を振って百官の指を叩き切り、舟から引き剥がし、舟底には切り捨てられた指が掬い取れる程に溜まった。


 黄河の岸には、百官と後宮の宮女が残されて泣き叫び、恨み言を叫んだが、殺到した李傕と郭汜の軍により宮女は拉致強姦され、百官はその場で多くが殺された。


 そのとき献帝に付き従う者は、僅かに側近の楊彪・韓融・楊奉・董承等十人余りに過ぎず、当然食料などの補給もできず、空腹と疲労に耐えながら、妃と宮女の二人に付き添われ先に進んでいたがこのときには民家の一般庶民に世話になっている。


 しばらくして献帝の元に、楊奉と韓暹が追いつき、牛車用意して献帝はそれで移動できるようになったことで安邑あんゆうに到着すると仮の宮殿として定める付き従ったものを官職に任命した。


 ここで韓融を弘農に派遣して、李傕・郭汜と和睦させると、彼らは掠奪強姦した宮女と、天子の馬車、生き残った公卿百官、それに数台の車を返還した。


 一応、朝廷の体裁が整ったため、献帝は安邑で先帝を祭り、天下に大赦して改元を行った。


 そこで安邑に蝗害が発生し、さらに旱魃も発生にダブルパンチ。


 曹操と呂布もこれで一時停戦したくらいであった。


 そしてこのときは棗をようやく口に入れ飢えを凌ぐ始末だった。


 さらにこの時元は董卓の部下である諸将は、気に入らないと文官を鞭で殴り殺すなど、好き放題にしていたらしい。


 そして食糧が尽き果て洛陽に向けて出発し、ほぼ一年掛けて洛陽に帰還した献帝だったが、その有様は安邑よりひどく、官僚は自ら薪や野草を採取して飢をしのぎ、献帝も自分達の食事のための食料を探さないといけない状態だった。


 むろん食べるものが見つからず餓死する者も出た。


 結局、そのままでいれば皆が餓死すると、董承の手引きで献帝は許へ移動するのだが、そんな悲惨な境遇に落ち一年を過ごし、そんな状況でも自分を支えてくれる百官や、安邑で親しみを以て接する庶民と触れあう事で、民の生活なども理解した献帝はその後、飢えた民の救済のために炊き出しをしたり、衣類がない百官や宮女の為に名馬を売り払って、絹を調達するなどをしていたりもするらしい。


 もっとも董卓の部下である諸将の傲慢さはその後も変わらなかったから、曹操に皆殺しにされたわけだが。


「うーん、経験によっては変わる可能性がないとも言えないのか?」


 ただし史実同様の悲惨な経験は俺のもとにいる限り無理だろう。


 史実の袁術は最後は麦のくずしかないような状態だったのに、蜂蜜入りの飲物を所望したが料理人にそんなものがあるわけねえだろと言われて吐血して死んでるしな。


 とりあえず市井を見て回ってもらおうか。

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