閑話:閻忠の見た光景
そして、史実においては閻忠だけが「賈詡には張良・陳平ほどの奇策がある」と言っていたとされる。
彼にはそのように人物を見る目があったが、それは出世とは結びつかなかった。
涼州は田舎でもあり武功を上げて出世したものはいるが、それ以外で出世したものはほとんどいなかったのだ。
それでも彼は地道に学を学び、黄巾の乱の起こった光和七年・中平元年(184年)にようやく冀州安平国信徒県の県令になれた。
だが安平王の劉續が黄巾により捕らえられ、その時に国の相である李燮は王劉續が黄巾より奪還された時に、朝廷に上奏した。
「元々は劉續がいた国に政治がなかったため、彼は黄巾にとらえられました。
その守備は不適切であり、それがゆえに彼は捕らえられて朝廷をはずかしめました。
ゆえに国に返すのはよろしくありません」
しかし、この上奏に対し内容を評議する人たちは同意しなかったので、結局、劉續は安平国に返され李燮は左遷され、閻忠も県令を罷免された。
しかし、劉續はその後に黄巾に囚われたことを罪にとわれ、誅された。
「一体何なのだ、これでは私はなぜ罷免されたのかわからぬではないか」
要は後漢の皇族での権力争いのとばっちりを受けたのだ。
そもそも黄巾が蜂起したのも後漢の腐敗があまりにも酷いからであった。
その後黄巾軍の頭領張角は倒れその弟たちが討たれ、一見すれば平穏な世の中へ向かっていた。
冀州に駐屯する皇甫嵩は冀州の一年分の田租を引き受け、飢餓にあえぐ民衆を助けようと上奏し、霊帝はそれを許し、冀州の民衆は戦による飢餓と、それと毎年の税徴、両方から苦しめられることはなくなった、はずであったが、翌年に宮殿が焼けたことにより天子は重税をかけ約束はやぶられた。
「なんなんだ一体、天子は民の苦しみをまったくわからぬのか」
そういったこともあり閻忠は後漢という体制そのものに見切りをつけた。
そして同じ涼州出身のよしみもあって、黄巾討伐を行っていた皇甫嵩と面会しやすかった。
閻忠は皇甫嵩に会うと次のように話した。
「得がたくして失いやすきものは時節、時節いたらば事を起こすは機敏であります。
それゆえ聖人はつねに時節にしたがって行動し、智者はかならず機敏によって行動したのです。
ただいま将軍は得がたき幸運に遭遇し、失いやすき機敏に行きあわれました。
しかしながら足元の幸運をつかもうとせず、直面した機敏にも行動されませぬ。
いかにして大いなる名声を維持できましょうか?」
閻忠は皇甫嵩の置かれている状況を言った。
しかし皇甫嵩には閻忠の意図がもう一つわからなかった。
「何をいいたいのかね?
はっきり言い給え」
皇甫嵩はそう聞き返し、閻忠は改めて言い直す。
「天の道理に親疎はなく、百姓すべてが関わることができるのです。
それゆえ優秀なる人物は功績を立てても凡庸なる君主の褒賞を受けないのです。
いま将軍は春の終わりに鉞をさずかり、年末には功績を収められました。
作戦活動は鬼神の謀略のごとく、計画の修正は必要とせず、大軍を破るにも枯れ木を折るほど容易に、堅陣を破るにも雪に湯をそそぐほどでございました。
七つの州を席巻し、三十六の方を屠殺し、黄巾の軍勢を皆殺しとし、邪悪な災いを取りのぞかれたのです。
死体を山盛りにして石碑を刻み、南方に向かって君恩に報い、威光を本朝に振るわせ、名声を海外に広められました。
かくて群雄たちは振りかえり、百姓たちは向きなおったのであります。
湯武の行動でさえ将軍の偉大さには及びませぬ。身に賢者の功績を立てながら、凡庸な君主に北面して仕えるのでは、どうして安全を計れましょうや」
それに対し皇甫嵩は言った。
「私は朝から晩まで公務を心がけて忠義を忘れておらんのに、なにゆえ安全でないというのかね?」
それに対し閻忠は言う。
「いいえ。
むかし韓信は一飯の恩義を絶てなかったために天下三分の偉業を捨てることとなり、鋭利な剣が喉もとに突きつけられて歎息する羽目になりました。
時機を逸して計略に従わなかったからです。
いま主上の勢力は劉・項より弱く、将軍の権威は韓信より重いのです。
指図すれば風雲を振るわすこともでき、叱咤すれば雷電を起こすこともできるのですから、冀州の人士を集めて七州の軍勢を動かし、漳河をわたり孟津で馬に飲ませて兵を起こすべきです。
功業すでに成り、天下すでに安まれば、しかるのち上帝をお招きして天命を示し、上下四方を合わせて南面し、詔勅を発して宝器を移すのです。
推察するに、亡国の失墜はまこと神々しき機運の極致であり、風雲発起の好機なのでございます。
早々に決行しなければ、後悔しても間に合いませんぞ」
しかし、その言葉に皇甫嵩は恐怖するだけだった。
「非常の計画は通常の形勢からは起こせないものだ。
大業を創始するなど、どうして凡才の成せることであろう。
黄巾は小悪党にすぎず、秦・項に並ぶものではない。
新たに結集したばかりで分散させやすかったのだ。
業績は成しがたく、人々は主君を忘れておらず天道は逆臣を助けぬもの。
もし不逞の功績を企てたとて、早晩の災禍を招くだけであろう。
本朝に忠誠を尽くして臣下の節義を守るのと、どちらがよいだろうか。」
閻忠は、皇甫嵩には言が用いられないことを察知すると、すぐさまその場を去り、狂気をよそおい冀州を離れた。
「皇甫嵩という人物は所詮名家の出であるゆえに時節の見えぬ愚か者か」
彼は在野で世の流れを見定めようとした。
冀州から司隷を通じて涼州に戻るときにも民の怨嗟の声は高まるばかりであったが、霊帝にはそれは届かぬようであった。
その中で涼州出身の将軍である董卓の名を聞き、彼はどうにかして董卓に会おうとしたがその伝手もなく、その間に異民族の反乱は董卓によってあっという間に鎮圧されてしまった。
「董卓という男、反乱をあっという間に鎮圧するとはな、皇甫嵩よりもこの男のほうが……」
そして霊帝が死ぬとその後継者争いが中央で起き、何進も董重も何苗も董太后も何太后も死んだ。
「欲によって身を滅ぼすとは愚かな連中だ」
そして袁紹は洛陽から逃げ出し袁術が権力を握った。
これにより政治は正されて世の中は良くなるかと思ったがそれは幻であった。
袁紹を旗頭とし清流派士大夫を中心とする反袁術連合軍と洛陽を抑える袁術軍はそれぞれ兵を集め、司隷・豫州・兗州で向かい合った。
その結果、反袁術連合軍は兗州陳留郡の酸棗で食料が不足し、民からそれを奪う始末。
また洛陽では、袁術を中心とする名族により、かつて十常侍を中心に行われていた時とほとんど変わらない政治が行われており、民に重税をかけていた。
「もはや漢王朝の命運は尽きたか」
そして、皇甫嵩が袁術の招きに応じて洛陽へ入ったことを聞いた閻忠は嘆いた。
「漢王朝を簒奪しようとする袁公路に従って戦ったところで、いずれ韓信のごとく一族ごと族滅されるだろうに、それもまた選んだことであれば致し方ないか」
閻忠はようやく征南将軍である董卓との面会にこぎつけることが出来た。
「ふむ自分が董(卓)仲穎だ。
用件は如何なる事かな?」
この男なら自分の言説を受け入れてくれるだろうか。
并州・涼州・益州・荊州・揚州を事実上抑えているこの男であれば。
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