光和6年(183年)

とうとう黄巾の大反乱が起きてしまったか

 さて光和6年(183年)中国北部では大旱魃と蝗害、黄河の反乱、大寒波の到来により、黄河流域を中心とした後漢北部地域では農作物に多大な被害が出てしまったが、宦官や濁流派の官司は当然ながら税を免除するでもなく、重い税を取り立て餓死したり離散する農家が続出した。


 どんなに頑張って農作業をして、しかも天災によって収穫量が激減しているにもかかわらず、通常と同じどころか売官のための銭を回収するためにとても払えない重税を課せられた農民は、税を払ったら来年の種籾もなく払わなければ処罰されて酷い目に遭うならと張角の言うことに従って立ち上がり漢王朝を打倒して新しい黄天の世の中を期待したのだろう。

 

「こいつは来年はやばいな、宦官や太守共が税の免除などをするはずがないし。

 なるほど大規模な反乱が起こるわけだ」


 そして翌年光和7年・中平元年(184年)1月に生活苦に迫られた農民のなかに、大いに広まった太平道は宮廷の中と外から反乱を同時におこし、漢王朝を打倒するつもりだったが、張角の弟子の唐周が宦官へ密告し、それにより宮廷内外の反乱計画が露見すると、己の身に危機が近づいていたことをようやく知った天子は洛陽に潜伏していた馬元義と、洛陽内部の太平道信者を中常侍の封諝、徐奉ら宦官・官吏・衛兵・民衆など合わせて1,000人余りを探し出して、馬元義は車裂きにされ、その他の者も皆殺にして、張角には捕縛の命を下した。


 それを知った張角は2月には洛陽の内部から漢王朝を打倒する計画を諦め、自らは天公将軍、弟の張宝、張梁はそれぞれ地公将軍、人公将軍を称して、各地へ指揮官を派遣して信徒を蜂起させ、その反乱は青州・徐州・冀州・豫州・兗州の全域と荊州・揚州北部に加え幽州の一郡まで広がった。


 太平道の信徒たちは皆、黄色い頭巾を身につけていたことから、この反乱は黄巾の乱呼ばれることになるが、彼らに攻撃を受けた郡県の太守・県令は、日頃の恨みとばかりに殺されるもの、戦わずに逃げる者、賊に応じる者も続出して、劉続や劉忠などは捕らえられて身代金を漢王朝に要求されたりもした。


 3月に天子は外戚である何進を河南尹から大将軍に任じ、洛陽を取り囲む洛陽八関に守備隊を配置させ、北中郎将に盧植を任じて張角のいる冀州河北方面へ向かわせ、左中郎将に皇甫嵩を任じて洛陽に隣り合わせる豫州潁川方面に向かわせ、俺は二人の上の征東将軍に任じられて、荊州や揚州の反乱を鎮圧することを命じられることになった。


「いっそ今が宦官を誅殺する好機かもしれないな」


 俺は弟や息子たち涼州や并州のときから、俺に付き従っていてくれる韓遂・馬騰・牛角・呂布などに話すことにした。


「洛陽にはいったら下級宦官の手引きで後宮に入り込み 、張譲、趙忠、夏惲、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓悝、宋典の十常侍たちを討とうと思うがどうだろうか」


「12人いますがなぜ十常侍なのでしょうね?」


「十人前後という意味合いだと思うが、実際どうだと思う?」


「ここは十二常侍と言うべきでは」


「いやこいつらの呼び方はどうでもいい。

 呂強や張鈞のような清廉な人物や権力もない下級宦官はどうでもいいが、上級宦官共はやはり打倒すべきだともうのだが」


 賈詡が皆を代表してまず口を開く。


「そもそも今回の反乱の原因も、官位を金で買えるようにしたことにもありますからな。

 そしてその金は宦官が懐に入れているわけですし、私は賛成です」


 呂布が大声でいう。


「そうだそうだ、俺たちが辺境でどれだけ苦しめられたか宦官共にわからせるべきだ」


 他の者達も同じ考えのようだ。


 曹操の父である曹嵩は既に徐州東北部にある琅邪郡に家族と共に避難していたはずだな。


 黄巾の乱は後漢王朝でも類を見ない広範囲な反乱に加えて、清流派に含まれる豪族の協力が得られない状態では、任じることができる指揮官も数が少ない。


 そして洛陽に残っている、俺が雇っている元宦官や李儒に話を聞いても、上級宦官への不満は相当高まっているようだ。


 俺は兵を率いて洛陽に向かうことにした。


 ただし、張鈞や呂強・向栩やそれに従う清廉な宦官は殺さないようにしたい。


 そもそも張角が、世の中を良くしたいという思いから、役人の採用試験を受けて落第したという経緯もあり、それが叶わないからこそ後宮と外の同時武力蜂起によって、漢を滅ぼそうと考えたのだろうしな。


 俺は洛陽に兵を率いて入ると元宦官の手引きで後宮に突入した。


「君側の奸たる十常侍を討ち滅ぼすべし。

 彼らに虐げられてきたものは我に続け!」


 宦官と言っても権力を得て豪勢な暮らしをしているものばかりでなく、下級宦官は上級宦官の慰みものとして尿を飲まされたりするものもいたりする。


 後宮内の革命とも言える事態が起こったのだ。


 そういった日頃の不満を爆発させた、下級宦官が今での恨みを晴らすべく、上級宦官に多人数で襲いかかったりもしているが、まずは十常侍と呼ばれたものを、捕らえたり逃げ出そうとしたところを斬り殺したりして十常侍などの粛清は終わった。


 もちろん張鈞や呂強・向栩など十常侍を討つべきと奏上する連中は生かしておいたし、張鈞や呂強・向栩などが霊帝に永安宮の候台(周り一面が見える物見櫓)に登らせると、天子の宮殿に匹敵するような豪邸がたくさんあり、それが十常侍たちのものであるということに霊帝はいまさら気付かされたらしい。


 そもそも黄巾の乱の前には中常侍は我が父母と言うほどに信頼していた霊帝だったが、黄巾の乱という大規模な反乱がおきて、なおかつそこで中常侍の封諝、徐奉らが張角に内通していたことが明らかになると、霊帝は中常侍たちを反乱を起こさせた責任に関して問い詰めていたのだな。


 なので俺の行動は最終的には罪に問われなかった。


 そして”そもそも張角の反乱を民衆が支持しているのは、州郡に派遣された十常侍の父兄や子弟、縁者たちが暴利を貪って民衆を苦しめているからです、ですので十常侍の首を晒し、其一族を誅殺して天下に謝罪すれば、おのずと反乱は治まるでしょう”という上奏文に従って十常侍の首を洛陽の市に晒すことで、一部の地域では反乱は収まりつつあったが、後漢打倒を掲げた張角は金持ちの蔵を襲わせて、食料を民衆に与えていたために完全な鎮圧はできなかった。


「では改めて反乱軍を討伐せよ、党錮の禁によって禁錮に服しているものはすべて許し、私腹を肥やしていた十常侍より取り上げたものと私の私銭と西園の良馬をすべて軍で使うがいい」


「かしこまりました、賊は我々で討伐してみせましょう」


 とりあえずは後宮は少しは良くなったんじゃないのかな。


 まあこの後、宦官というライバルがいなくなった、何進がどうするのかとか、袁紹や袁術もどう動くかとかはわからんがな。

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