建寧3年(170年)

皇甫規が引退して皇甫嵩が後任としてやってきた

 さて、建寧3年(170年)になり、俺は并州刺史を兼任することになった。


 刺史は前漢の武帝が元封5年(紀元前106年)に、全国に十三州のを設置したのと同時に設置され、刺史の役割は郡守などの不正を取り締まる監察官。


 ただその俸禄は監察される側の郡守が二千石なのに対して、刺史は六百石と低く、その権限も実際は小さかった。


 しかしこれでは実際としてはなんの役にたたなかったので不都合であると、成帝の綏和1年(紀元前8年)に二千石に改められて郡守と同格になり、名前も牧と改称され、州が最高行政単位となり、牧は州内各郡県の行政権に介入するようになった。


 そして建平2年(紀元前5年)にはまた刺史に名前が戻り元寿2年(紀元前1年)にまた州牧に改められるなど、刺史と牧の間で何度も変わる事になったが、後漢に入った建武18年(42年)に光武帝が再び刺史に名称を改め、さらに特定の治所を持たず領内を巡察していた前漢の制度を改めて、州の中に治所を持つようになり毎年8月に諸郡を巡察することとした。


 更にその治所の周辺の地域の行政権を完全に握るようになったことで警察権と行政権も持つかなり強い立場を得たのだ。


 徴税権はないけどな。


 本来だと丁原が并州刺史についた時に呂布と出会って彼は呂布を召し抱えるのだが、丁原の性格は粗野で騎射を得意とする軍人であり、事務能力は幼少時から勉学を疎んじていたのであまりなかった。


 彼は一度命令をうければ自ら先頭で戦って結果を出しているのだが、彼の配下となった呂布に与えた役割は主簿、これは要するに事務員とかで現代の会社で言えば庶務とか総務みたいなもんだ。


 もちろん呂布がそれを得意としてるわけはなく、丁原を裏切った理由の一つが自分に合わないことをやらされていたからと言うのも有ったらしい。


 そりゃ武勇で活躍させられると思ったら事務をやらされてもな。


 それはともかく皇甫規も、そろそろ年齢も有って引退することになって、甥である皇甫嵩が派遣されてきた。


 そして皇甫規は俺と皇甫嵩に対していった。


「お前達に後を託せれば安心できる。

 もう良い年齢だし後はゆっくり過ごさせてもらえるか」


 俺は頭を下げて言った。


「長い間お疲れ様でした、ゆっくり養生して長生きしてください」


 皇甫嵩も同じように言う。


「皇甫威明叔父上の名を汚さぬよう協力してまいりますので後はゆっくり休んでください」


「うむ、よろしく頼むぞ二人共」


 流石に60代後半になると辛いよな。


 少しゆっくりして長生きできるといいんだが。


「皇甫義真殿、これよりよろしくおねがいしますよ」


「うむ、董仲穎殿こちらこそよろしく頼む」


 皇甫嵩は皇甫規と同じく涼州は、安定郡の生まれで、その一族は度遼将軍を務めるものを何人も排出している武門の名門の家で俺の家とは格がだいぶ違う。


 それに俺よりも10歳近く年上だしな。


 彼は若い頃から文武の才能に優れており、詩書を好み弓馬の術の習得に励んだ結果、孝廉に推挙され、朗中に任命されそうになったが、折悪く父の皇甫節が亡くなり、喪に服するためこれに応じずその後も陳蕃と竇武に招聘されたがこのときも果たせなかった。


 しかし、霊帝の直接の招聘によって議郎から太守を経て度遼将軍に任じられて并州へ来たというわけだ。


 彼は後漢最後の名将とも言われるくらいなので一緒に働く上でも安心感はあるな。


 まあ、史実だと董卓は黄巾の乱の鎮圧に失敗してるのに皇甫嵩は鎮圧に成功していたり、韓遂の反乱で意見を違えて仲が悪くなったりするがその辺はうまくやっていかないとな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る