閑話:この頃の主に洛陽などの世の中の流れ

 さて、張奐が宦官によって禁錮されて官位を剥奪されて、田舎に引きこもったのとは反対に、皇甫規は、桓帝の末の頃には政争にうんざりしていたのか引退を願い出ていたが、文武ともに有能であるがゆえに彼はそのまま用いられ続けた。


「流石にもう疲れてきたな、もういい加減引退したいものだ」


 若い頃の皇甫規は、周りからの中傷誹謗など気にせず好きなことを言って、厳格に部下を用いていたが、流石に讒言で陥れられたことなども有って弱気になってきていたのかもしれない。


 そんななかで上郡太守の王旻という、皇甫規の友人が喪の期間を終えて帰ってくると、皇甫規は鎧を脱ぎ捨てて、喪服に着替えて許可なく度遼将軍の持ち場を離れ、王旻を迎えにいった。


 そして皇甫規は、俺の怠慢を、上司で并州刺史の胡芳に報告してくれよと、王旻に言ったのだ。


 もちろんこれはもう辞めたいから言ったわけだが、そんなことは友の王旻でなくとも分かるわけで、彼は当然ながら皇甫規の行動を上司にチクることもなく、皇甫規はそのまま将軍を続けることになった。


 彼がいなくなれば、異民族がまた好き勝手に侵入することも、わかっていただろうから当然ではあるが。


「なぜ誰も私をやめさせてくれないのだ」


 彼はそう思ったが、彼が有能で清廉な人物であれば、やめさせたくないのも当たり前であったろう。


 そして、延熹9年(166年)に司隷校尉の李膺と太学の学生の郭泰や賈彪などの清流派が、中常侍の専横を批判し罪状を告発したが、中常侍たちは逆に”党人どもが朝廷を誹謗した”と訴え、李膺ら清流派党人が、多数逮捕された第一次党錮の禁が起こったが、皇甫規は逮捕されなかった。


 彼は有力かつ清廉な将軍だが、中央との結びつきは弱くて、平和なときの中央での名声ははっきり言えば低く、それ故に党錮の対象から外されたのだ。


 それならばと張奐の復帰をしたことなどを理由に退任を申し出た。


 それが受け入れられれば”皇甫規将軍は清廉であるばかりに、罷免されたが誠に惜しいことだ”

 という世間の評判を得つつ、元から願っていた引退も出来るはずだった。


 ところが、宦官からは辞めたい人間をやめさせては嫌がらせにならぬと皇甫規は罷免されずにいた。


 民衆は皇甫規の態度を褒めたがそれも慰めにならなかっただろう。


 翌年の延熹10年、永康元年(167年)に彼は不本意ながら尚書となったが、同年の夏に日蝕があった。


 その時に、桓帝からの下問に皇甫規は答えつつ”陛下の失政を、天が叱っているのです、外戚を誅し、賢者を虐げ、愚者を重んじるのがいけないのです、しかし宦官を恐れて誰も口を出そうとしません”とズケズケと政治批判をした。


 それにより皇甫規は尚書を辞めさせられ、また辺境へ送り返された。


 普通なら官職を剥奪するほうがいいが、彼は元々辞めたがっているわけで、辞めさせては宦官としても嫌がらせにならないので、わざわざ寒い辺境に送り返したわけだ。


 それにより、彼は一時的に腐っていたが李膺との出会いと俺の手紙で再度奮起して、今ではまた頑張っているらしい。


「ふむ、もう少しだけ若いものが育つまでは頑張ってみようかね」


 もうひとりの涼州三明の段熲は涼州で羌族相手に連戦していた。


 段熲は張奐をライバル視していた。


 張奐は異民族である羌族を同じ人として扱い、彼らとの約束を守り、彼らから財貨を収奪するようなことはなかったが、典型的な後漢末の漢人の役人である精神を持つ段熲には理解も賛同もできなかったのだ。


 建寧元年(169年)に段熲は涼州で羌族を打ち破った。


 そして桓帝が死に、竇太后が臨朝すると段熲は破羌将軍の称号を与えられた。


 張奐が中央で清流を斬ってグダグダしている間に、段熲はどんどん出世していった。


 しかしそのころ洛陽で張奐が竇太后に羌族を殲滅するなど不可能であると上言し竇太后は、その言葉を受け入れて、段熲に攻撃停止を命じた。


 竇太后からの詔書を受け取った段熲は、反論の上書を書いたが竇太后は段熲の意見を却下した。


 翌年の建寧2年(169年)に、段熲は仕方なく詔書に従って羌に降伏を促した。


 だが県府には余剰な穀物はなくいずれは反乱を起こすことも計算の上の行動であったが。


 ちなみに異民族を目の仇にする段熲だが、彼の主力の兵も大月氏を中心とする羌族などの異民族の騎兵だ。


 そして結局は捕虜となったものが飢えたことで東羌が略奪を開始すると、段熲はそれみたことかとばかりに東羌と戦ってこれを打ち破った。


 この時には牛・馬・驢馬・騾馬と言った家畜や毛織物や皮衣などの衣服に生活用のテントなどを無数に獲得したという。


 そして太后に応じて投降した4000人は、涼州の安定郡・漢陽郡・隴西郡に分割して住まわせこれにより、西羌に続き東羌も平定され涼州にも平穏が訪れた。


 建寧3年(170年)に段熲は洛陽に戻り、汗血千里の馬や奴隷とした兵10000余人を率いた。


 かれは九卿の1つの大鴻臚に任命され、更に侍中・執金吾などを歴任し司隷校尉になった。


 段熲は宦官の中常侍である王甫ともともと親しくしていたがこれによって彼の手足として働くようになった。


 建寧4年(171年)に元服した霊帝は貴人の宋氏を皇后に立てた。


 翌年の熹平元年(172年)、段熲は王甫の政敵であった宦官の鄭颯・董騰らを捕らえ、さらに渤海王である劉悝を捕らえ、劉悝の妻や子供を含めた一族や家臣、鄭颯・董騰らはみな誅殺された。


 段熲はこの功績で三公である太尉となった。


 党錮の禁の対象者は熹平5年(176年)に党人の一族郎党まで拡大され、有能なものであっても清流派と目され官職につけず、そういった者は司隷から周辺の州へ脱出したため司隷の周辺の州である荊州・豫州・兗州・冀州などで清流派の力が高まるきっかけともなった。


 光和元年(178年)蔡邕さいようは宦官の専横を厳しく直諌する封事を奉ったが、これが曹節に漏洩したため宦官の恨みを買ってしまい、誣告によって家属共々朔方郡へ徒刑となった。


 同年178年、皇后であった宋氏は宦官の王甫の讒言によって皇后を廃され、悲しみのままに死んでしまった。


 これは以前一族ごと皆殺しにした劉悝の妃が宋皇后の叔母に当たるため、その復讐を恐れていたのだと言われているが真偽はわからない。


 しかし、 光和2年(179年)王甫とその一族が司隷校尉の陽球によって逮捕され獄死すると、段熲も捕らえられて毒を飲んで死んだ。


 そして司徒の劉郃と陽球は宦官の張讓や曹節らを弾劾したが、曹節らは劉郃らを逆に誣告し陽球は逮捕されて洛陽の監獄で獄死した。


 栄華の末路もあっけないものである。


 そして光和3年(180年)に霊帝の子でいずれ少帝となる劉辯を産んでいた貴人の何氏が皇后となり、何皇后の父の何真は車騎将軍に兄である何進は天子の側近である侍中として登用される。


 何氏は荊州南陽郡宛県の出身で、実家は羊の屠殺業という卑しい身分の家であったが背の高い美人であった。そして異母兄の何進が同郷の十常侍である郭勝に賄賂を贈って後宮に入り、霊帝の寵愛を得て貴人になったので大出世だ。


 同年に霊帝の妃嬪の1人である王美人が懐妊し、翌年の光和4年(181年)に霊帝の第2子となる劉協が産まれたが、王美人は嫉妬した何皇后に毒殺されてしまった。


 そのため劉協は霊帝の生母である董太后が面倒をみることになり、王美人の暗殺事件以降は霊帝は何皇后を遠ざけて、何皇后が産んだ劉辯よりも、王美人が産んだ劉協をかわいがるようになったし、教育も劉協を優先して行ったらしい。


 母親の嫉妬の結果で、皇帝に子供が嫌われるんだから、馬鹿なことをしたものだし、結局はそれが将来にも響くことになるのである。

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