桓帝が崩御して霊帝が即位し第二次党錮の禁が起こる?

 さて張奐は梁冀によって抜擢されたという理由で免職されなかなか復帰できなかった。


 皇甫規は張奐を早く現場に復帰させるべきだと7回も朝廷に申し出たが皇甫規自体が宦官に嫌われていたのもあって全く提案が通らなかったんだ。


 むしろ張奐には皇甫規の提案であるから逆に宦官によってあっさり却下されてるのではないかと、ありがた迷惑であった部分もあったろう。


 しかしながら皇甫規が部下の讒言で中央へ戻され、辺境が荒らされ放題になったこともあって4年後には、張奐は武威太守として現場へ復帰した。


 段熲一人で辺境を守り切るのは不可能だったからだ。


 武威で張奐は公平な統治を行い迷信を正した。


「2月と5月に産まれた子は殺せ」


「父母と同月に産まれた子は、殺せ」


 こういった迷信に従って子供を殺すことをやめさせ、それによって殺される子供もいなくなり張奐は統治の功績を認められ、度遼将軍にまで上り詰め、幽州と并州は平穏を保ったらしい。


 その功績が認められ延熹9年(166年)春には大司農となったことで張奐もいちど都へ戻ることになった。


 しかしながら、その年の夏、鮮卑は南匈奴と烏桓と結託し、大軍で国境を超えて并州や幽州に侵入し、あちらこちらで略奪と殺戮を繰り返した。


 張奐は、護匈奴中郎将となってまた辺境へ戻り幽州と并州のあちこちを駆け回って連戦した。


 張奐は大司農という文官の位を持ちながら護匈奴中郎将という辺境の軍人も兼任させられ、身銭を切って地方官に褒美をばら撒き配下の者を養ったりもしてる。


 そして南匈奴と烏桓は、以前にも張奐と戦ったことがあり彼が戻ってきたことであっさり降伏したが、張奐は元凶となった扇動者だけを斬って、残りは受け容れ味方としたそうだ。


 全体的なバランス感覚では涼州三明でも一番だと思うが政治的センスはあんまないんだよなこの人、まあそこがいいんだけど。


「張然明様お久しぶりでございます」


「うむ、董仲穎も元気そうだな、以前にまして精悍な顔つきになったようで何よりだ。

 また我が下で働いてくれるか」


「はい、そのつもりでやってまいりました、成人した我が弟や親友も共に戦います」


「うむ、それは心強い」


 ちなみに俺は司徒の袁隗の推挙もあって五品2千石の羽林中郎将、日本で言えば近衛中将かな?になっている、上がったり下がったりまったくもって安定しないがこういう時代だから仕方がない。


 そして涼州を挟んで東にいる東羌が5千の兵で攻め込んできた。


「董仲穎、一軍を率い東羌を打ち破ってくれ」


「承知いたしました」


 賈詡などは落ち着き払ってるあたり流石だな。


「では参りましょうか。

 いつものように偽装敗退からの伏兵攻撃で行けばよいでしょう」


 弟もかなりやる気だ。


「伏兵役は俺たちに任せてよ兄ちゃん」


「おう、頼んだぞ、俺は突っ込んでから逃げてくるからな」


 俺は弟や賈詡・馬騰・牛角・張繍・韓遂などの部曲を率いて東羌の5000を偽装敗退からの伏兵攻撃で打ち破って降伏したものは兵として吸収し乱を平定した。


「ふむ、なかなか大したものだ」


「いえいえ、張然明様の指示があってのことでございます」


 賈詡もうなずいている。


「名将と名高い張然明様の実力、おみそれいたしました。

 これから私も勉強させていただきましょう」


 とはいえ張奐は皇甫規ほどではないにせよ宦官にへつらってるわけではないので恩賞は少なく銭20万をと彼の一族の1人を郎に取り立てるだけであった。


 だがそれを彼は辞退し代わりに本籍地を敦煌から弘農に移す許可をもらった。


 この時代戸籍を辺境から内地に移すことは、基本的に許されなかったのだが張奐は軍功によってその例外になったわけだ。


 敦煌みたいな本当の僻地になると異民族によって通行が遮断されることもしばしばだったし、弘農郡ならまだ安心もできるのだろう。


 そして建寧元年(168年)桓帝が崩御して霊帝が即位することになる。


 霊帝はまだ幼いため先帝桓帝の皇太后となった竇太后が政治を代行し、、父の竇武が大将軍になった。


 竇武はかっての梁冀と同じ立場となったわけだ。


 順帝以前には宦官は養子を認められず一代限りのものであったが、順帝の時代に宦官の孫程のクーデターに より専横していた閻氏らが打倒され、その功績により宦官の養子は認められるようになった。その結果、桓帝が梁冀を粛清した後に強化された宦官の権力が、継承されるようになった。


 しかし桓帝が崩御すると終身禁錮の刑に処された清流派が再び官職に復帰することになり。


 即位に立ち会うために張奐は洛陽へ戻ることになった。


 前漢が外戚である王氏によって滅ぼされたため外戚を嫌う風潮も強く、外戚が権力を握りすぎるとまた国が滅んでしまうかもしれないと思われ、後漢では四代和帝から順帝の時代まで、幼帝で外戚が台頭する、皇帝が成人して宦官を頼り外戚を皆殺しにする、皇帝が死んで幼帝が擁立される、また外戚が台頭するということが繰り返されてきた。


 ここで大将軍の竇武と大傅の陳蕃は、宦官の曹節や王甫などを殺そうとするが逆に曹節は、にせの皇帝の勅命を出して張奐に兵をひきいて竇武の家を包囲し竇武は自殺することになり、その加担者や清流派の党人らが徹底的に弾圧された。


 いままでの外戚がだいたいろくでもないことをしてきたことも張奐が竇武を排除させようとした理由の一つでもあって、このあとの第二次党錮の禁が後漢が崩壊する理由の一つともなった。


 なんとか防ぎたいものだがなんとかなるだろうか?

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