延熹5年(162年)

結局皇甫規も罷免され中央に戻っちまった

 さて皇甫規に従い俺は転戦し、翌年延熹5年(162年)には涼州全土での羌族の暴動をほぼ完全に鎮圧した。


 その結果、俺は戊己校尉に返り咲き皇甫規も安定郡の郡司となって出世できたたのだが相変わらず部下に落ち度があればそれをバカ正直に中央に報告したりしている。


 宦官が大嫌いでそれらの指示には従わなかったりもするし、そういったこともあり嫌がらせなのか官司の俸給も遅配したりして自腹を切ってなんとかしてるやつもいるのにそれを公私混同と言ったり、給料ではいろいろ足らないから心付けを求めることも時には必要なのだがそういったことまで許せない性格の皇甫規は讒言を受けることになる。


「皇甫規は、金を使って羌族を懐柔しただけで、本国では降伏を受けたことになっているが、それはまことではない、羌族に金を与え私兵として扱いいざとなれば反逆を行うだろう」


 などというものだ。


 これにより桓帝からわざわざ玉璽を捺した書状が届いた。


「朝廷に対して偽りの報告をするとは、まことけしからぬ。

 しかも反逆するつもりなのか?

 すぐに洛陽へ戻り釈明せよ」


 皇甫規は手紙で弁明をしたが結局その年の冬に、洛陽に呼び戻されて、文官で七品600石の議郎とされた。


 本来なら皇甫規は、涼州の羌族の反乱を鎮圧した軍功によって侯となって封地をもらってもおかしくはなかったのだが、宦官たちは讒言をもとに敢えて不相応な位の低い議郎に任命し皇甫規へ全く正しくない書状を見せて”お前の本当の功績はこの書状のとおりであろう”と問いわせた。


 皇甫規はそれに対し何も答えず宦官へ銭を送るようなこともしなかったから宦官たちは”やはり皇甫規は、羌族に賄賂を送っていた”と罪をでっち上げて労務刑が言い渡されたが三公らが、皇甫規の無罪を訴えたことで皇甫規は許されて、家に帰ることができたらしい。


 そして皇甫規が中央へ呼ばれてまたしても羌族が反乱を起こしそしたらやってきたのは最後の涼州三明の一人で護羌校尉の段熲だった。


 大将軍の梁冀に招聘されたもののすぐに手を切って中央とあまり関わろうとしなかった張奐や、梁冀も宦官も大嫌いと明言していた皇甫規と違い彼は宦官の王甫と親しくしていたりする。


 俺たちはのんびり過ごしていた延熹3年(160年)に彼は涼州刺史の郭閎に陥れられて投獄されたが、すぐに冤罪だと判明して釈放された事もあったらしい。


「うむ君が董仲穎か、その勇名は私も聞いているよ。

 これよりよろしく頼むな」


「はい段紀明様よろしくおねがいします」


 羌族との戦いは果てしなく続き延熹7年(164年)には武威郡・張掖郡・酒泉郡を荒らしまわっていた羌族討伐に赴き、数千人を斬首・捕虜とし、翌年延熹8年(165年)にも数千人を斬首・捕虜とし羌族は遂に飢えて散亡したが、段熲はさらに攻勢をかけ、西羌を破って2万3000の首級を挙げ、1万を超える村落を降した。


 この間俺は生まれた息子などもきちんと俺や弟に施したような馬術・弓術などの武術や兵法などの教育も行いつつ俺の手足となって働けるよう教育もしている。


 同じくらいの年齢の子どもたちに馬術やら弓術やら格闘術やらを教えているが、きっと呂布なども混ざってると思う。


 俺の息子と呂布たちが一緒になって戦ったりすることもあるだろうし将来が楽しみだったりするんだよな 。


  延熹10年、永康元年(167年)にはまたも西羌が武威郡を攻め、段熲は追撃して首領を斬り、3000人余りを殺し西羌を服属せしめた。


 段熲はしばしば羌族の徹底せん滅を主張しており、張奐の融和政策を批判していて張奐の進言により朝廷から停戦命令が下された際は、激怒して反論の上書を送ったりもしている。


「羌族も氏族が多すぎて味方にできたのは少なかったな」


 おれは段熲によって推挙され、最高位に位置する3つの官職である三公の一つである行政を司り以前は丞相と呼ばれていた司徒の袁隗によって掾に取り立てられた。


 袁隗は袁紹や袁術の叔父だな。


 そんな間に中央では大事件が起こっていた。


 先年の延熹9年(166年)に司隷校尉の李膺と太学の学生の郭泰や賈彪などからなるいわゆる「清流派」と呼ばれる者達が朝廷に於いて、宦官の中常侍の専横を批判し罪状を告発したが、中常侍たちは逆に「党人どもが朝廷を誹謗した」と訴え、李膺ら清流派党人を逮捕投獄した。


 逮捕された者たちは豪族達の運動で死罪は免れたものの釈放はなかなかされる事なく、そして翌年に李膺らは、皇后の父竇武のとりなしにより釈放されるも、終身禁錮すなわち二度と官職につけなくされたのだ。


「しまったな。

 もうそんな時期になっていたのか」


 党錮の禁について話すならまずは、『清流派』と『濁流派』という言葉について説明しよう。


 郷挙里選と呼ばれる制度によって、地方豪族は能力があると思われる人物を中央へ推薦し送り込む。


 だが中央へ行ったそういった者たちは、宦官勢力が跋扈している状況に嘆息することになる。


 宦官は去勢を施された官吏であるが貴族でないものが皇帝や後宮に仕える事ができるようになるためのほぼ唯一の手段だったった。


 そして儒者から見れば宦官は「自ら性器を切り落としてまで皇帝におもねり、権力欲にまみれ他人を陥れることもためらわない、実に汚らわしい連中」といった感じなのだ。


 なので宦官やあるいは宦官にすりよる連中たちを「濁流派」と蔑み、自分たちは違うと「清流派」と呼ぶようになっていく。


 そして後漢の朝廷で出世するための選択肢は2つ、外戚にすり寄るか、宦官にすり寄るかのどちらかだ。


 俺は段熲によって袁隗という貴族中の貴族につなぎをつけてもらえたが普通はこうはうまくいかない。


 そして外戚である梁冀が誅殺されるとそれに連座して多数が官職を剥奪された。


 もはや清流派の出世は絶望的かと思えた時に外戚の後ろ盾もなく、宦官とも距離を置きながら、独力で要職に就いた陳蕃ちんはんという人物が現れた。


 そして陳蕃の上役に当たる青州刺史だった李庸りようという人物がいた。


 李庸に才能を認められた若い官吏は、それによって将来が約束され「龍門を登った」と言い表しこれが「登龍門」という諺になった。


 もとは黄河の上流にある龍門という滝もしくは急流があり、ここを登れる魚はいないが、もし登ることができると龍になれるという言い伝えから来たものらしいけどな。


 というわけで宦官でも外戚でもない清流派という新しい勢力と宦官の間の政治闘争なわけだが結局はあっさり宦官が勝ってしまったということだな。


 だがまだ致命的なことにはなっていない。


 しかし来年の建寧元年(168年)に張奐が宦官に陥れられて竇武の屋敷を包囲し、竇武は誅殺され、陳蕃は仲間を80人ほど連れて抗議のため参内し宦官の王甫を罵倒しつつ捕縛され投獄されると即刻殺害されたはずだ。


 これはなんとか食い止めておきたいが間に合うだろうか。


 涼州は落ち着いたことだし并州の張奐の所へ向かうとしよう。

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