人形
気が付けばもう十月。夜、外に出ると風がひんやりと冷たい。誰から言われるまでもなく静粛な気持ちになる。虫たちが心なしか弱々しい声で鳴いている。もうそろそろ秋も終わりだ。最近の秋は本当に短い。九月下旬までは暑い日もあったはずだが、もう半袖を着るには涼しすぎる。
俺はあてもなく家を出たが、近所を散歩することにした。家から出るのは数週間ぶりだった。最近は道で知らない人とすれ違うのすら億劫になっていて、家に引きこもっていたのだ。
ここは日本全国に無数にあるような、普通の静かな住宅街で、両側が戸建ての住宅。夜は特に人通りが少ない場所だった。どの家からも明かりが漏れているが、住人たちの声も聞こえず静寂に包まれていた。こういう場所が一番危ないものだ。女性の一人歩きはお勧めしない。
家の近くの舗装された道路を歩いていると、ちょっと先に、女の人が倒れていた。暗がりで人に遭うとちょっとぎょっとするが、倒れているのだから余計に気味が悪い。腰位までありそうな長い髪が地面にまで散らばっていた。膝丈くらいのスカートから足がのぞいている。OLみたいな感じの服だったが、交通事故ではなさそうだ。街頭の明かりでその人の体つきや服の様子がわかるが、血が付いたり汚れている感じはなかった。年齢的に二十代半ばくらいのような気がした。
ちょっと気になって立ち止まったが、面倒に巻き込まれたくなかったから、俺はその横を素通りした。向こうから人が歩いて来る。その人がもしかしたら声をかけるかもしれない。
一応言っておくが、ここは公道で車が通るかもしれない場所ではある。
とにかく、俺は面倒に巻き込まれたくなかった。若い女性かと思ったら、そうではなかった。日本人だと思ったらそうではなかった。人間かと思ったら、人形だという可能性もある。または、俺の幻覚…なんて結末もありそうだ。
俺を非難する人がいるかもしれないが、昨今は親切心が仇となり、犯罪に巻き込まれる危険性もあるのだ。
俺はすれ違ったその人。四十代くらいのサラリーマンがどうするかと期待した。きっと正義感を燃え上がらせて、必死に救護するだろう。電車男みたいにロマンスが生まれるかもしれない。ちょっと羨ましい。
その人は長袖のシャツを着ていて、一瞬で記憶から消えてなくなるような、ありふれた感じの外見だった。俺は立ち止まって、その背中を見送った。
すると、その人は女性を見つけるとしゃがみ込んだ。その座り方がちょっと気持ち悪かった。ちょっと変な人だ。俺はすぐに気が付いた。何も発さずに、女性の体を両手でぺたぺたと触りだし、動かないことを確認すると、最終的には黙って肩に担ぎ上げたのである。なんて力の強い人だろう。そして、あっという間に足早にその場から立ち去った。まるで、ターザンのようだった。ああ、あの人生きてたんだ。俺は思った。死体なら連れていかないだろう。それに、重症の怪我人なら抱きかかえて連れ去ったりしない。そのまま救急車を呼ぶか放置だ。
俺は納得がいった。きっとパートナーのいない人で家に連れて帰ったんだろう。
不思議だったのは、その女の人がバッグなどを何も持っていなかった気がしたことだ。きっと家が近くにあって、コンビニなどに行くつもりだったのだろう。目が覚めたら知らない男と一緒なんて、きっとびっくりするに違いない。あの男がラッキーなのか、そうでないのかはわからない。
すると、遠くから叫び声がした。けたたましい男の叫び声だった。俺はちょっと面白くなって、声の方へ向かった。すると、近所の人たちも集まっていて、口々に「救急車!」「警察!」などと叫んでいた。
俺が周辺に集まっている人たちの肩越しに地面を見ると、さっき女を抱えた男が倒れていた。はっきりと怪我人とわかるような姿だった。顔が血だらけで、まったく動く気配がない。生きているかもわからない様子だった。熊などの猛獣にやられたみたいだ。
きっと正当防衛が認められる。俺は思った。気が付いたら知らない人に担ぎあげられていたら、誰だって気が動転して相手を攻撃してしまうだろう。女が捕まっても俺は名乗り出るつもりはない。俺はやっぱり関わらなくて正解だったと胸を撫でおろしていた。
俺はさっき女の人が寝ていた道を避けて家に帰った。それでも途中であの人に出くわさないかとびくびくしていた。あの人は寝ていたし俺の顔は覚えてないだろう。だけど、また道路に横になっているんじゃないか。次は俺の番じゃないかとハラハラしていた。
途中でコンビニに寄り、何もなかったかのように家に戻った。玄関のカギを開ける頃にはその日起きたことを忘れつつあった。年を取ることのメリットは物忘れの早さくらいだろう。
しかし、シャワーを浴びている間にまた残像が浮かんでしまった。血だらけで地面に横たわって(恐らく)亡くなっていた男性を思い出した。まさか、今日タヒぬなんて想像もしなかっただろう。人生はわからないもんだ。俺だって…。
俺はTシャツにパンツのままリビングに行った。家にいる時は大体そういうラフな格好をしている。
「ただいま」
俺はガールフレンドに声をかける。これを読んでいる人は俺みたいな引きこもりに彼女がいるなんて、と苛ついているかもしれない。でも、そんなの無意味だ。俺の彼女は俺以外にとってはただの人形だ。
彼女が俺を見て微笑んでいた。
今日はなんだか複雑な表情をしていた。
だが、何かがおかしかった。
顔に擦り傷があるし、何故か髪がぼさぼさだ。
しかも、気が付くかつかないかくらいの程度で服が汚れていた。
「あれ…」
そして、指先は赤黒いカスのようなものがこびり付いていて、シリコンの中に詰め込まれた金属がはみ出しているじゃないか。まさか。俺の彼女が?
「あ、そっか。さっきは俺を驚かせるために道端に寝てたんだろ?君は前から悪戯好きだったよな。手もボロボロじゃないか」
俺は笑いながら、ラブドールの隣に座り、ぼさぼさになった髪を撫でた。彼女は前もそんな悪戯を仕掛けてきたことがあった。
「誘拐されそうになって、きっと怖かっただろうな」
彼女の髪や服からは俺が外で嗅いで来た排気ガスと埃のにおいがした。
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