定食屋

 最近、奇妙なことがあった。

 

 俺は一人で旅行に出かけ、某県のとある場所に立ち寄ることにした。簡単に言うと歴史的な史跡がある場所だ。文化財というほどのものでもなく、駅に看板などはない。マイナー過ぎて知っている人は少ないし、ガイドブックにも載っていないが、俺は興味があった。旅行も行きつくして、誰も注目しない場所に行くのが好きだった。


 移動は電車とバスだったが、バスがない地域だったから、駅からは歩いて目的地に行った。タクシーなんかないド田舎で、徒歩三十分もかかった。


 戻って来た時にはもう駅の周辺は真っ暗だった。その暗さというのは都会に住んでいた自分には想像できなかったほどで、街灯はほとんどなく、駅の周りの建物さえ全部を見渡せないくらいになっていた。


 駅は当然無人駅で、住人以外に利用する人はいないようだった。

 そんな中、一か所だけ電気がついている建物があった。

 定食屋のようで、正面には名物〇〇という紙が貼ってあった。

 昼間はそんな店があったか一向に覚えていない。田舎はどこも似たようなもので、あってもなくても誰も気にも留めないような、そんな佇まいの店だった。どんな田舎でも飲食店はあるもんだ。俺はほっとした。


 俺はほとんど何も見えない暗がりの中で、ガラスの中のサンプルに目をやった、どんぶりの中に麺類がうっすらと見えた。どうせ何を頼んでも大して金額でもないだろうとすぐに入ることを決めた。電車の時間まであと三十分あったし、三十分をほとんど照明のない、駅のホームで過ごす気にはなれなかったからだ。麺類ならすぐ出て来て、食べるのもあっという間だ。


 俺が店に入ると、先客が一人いた。

 七十代の初老の男性で空っぽになった皿を前にして、何もせずに座っていた。


「こんばんは」

 俺は思わずその人にあいさつしてしまった。店に誰もいなかったからだ。オレンジ色のテーブルが並び、床はコンクリートだった。俺が子どもの頃、昭和の時代から、そういう店があったと思われるくらい、寂れた定食屋だった。店の左半分はテーブル席。残り半分はカウンター席で内側が料理スペースだ。カウンターには店の人がいなかった。


「ごめんください」

 奥行きが全くない店だったが、それでも俺は声を掛けた。

「店の人は、今、足りない材料を買いに外に出てますよ」

「ああ、そうですか…すぐ戻りそうですか?」

「多分、近くにスーパーがあるから」

 スーパーなんかなさそうだったが、道路の両脇にちょっとあった家のどれかで野菜なども売っているのかもしれない。

「そうですか。何分くらいかわかりますか?時間がなくて…」

「次の電車に乗るのか?」急になれなれしくなった。方言だったが、場所を特定されないように、共通語で書いておく。

「はい」

「じゃあ、ビールでも飲んどく?」

「はい…でも」

「大丈夫。俺はこの店の常連だから」

 しわだらけの顔に無精ひげを生やした田舎のおじさんだ。よれよれの野球帽をかぶっていた。

「はあ」

 その人はカウンターの中に入って行き、冷蔵庫を開けて勝手にビールを出した。見ると手元にあったのは缶ビールだった。その人は缶ビールを俺のテーブルまで持ってきた。グラスはない。一体、どこの店でビールを缶に入った状態で客に出したりするだろうか。俺は不愉快になったがとりあえず頭を下げた。そして、プルタブを開けてビールを一口飲んだ。普段よりうまく感じた。喉が渇いていたことと、歩き疲れた後に飲んだビールは格別だった。

「いや…うまい」

 俺は思わず声を出していた。


「今、なんか作ってやるから」

「え、でも…」

「大丈夫。あるもんでなんかこしらえるから」

「はあ」


 その人は厨房に入って何やら料理をし始めた。調理師でもない人が作る料理。なんだか怖かった。ゴキブリでも入ってるんじゃないか。しかし、人にふるまうくらいだから、もしかしたら想像以上に美味しいかもしれない。世の中には料理人より料理をうまく作る人がいるもんだ。


 俺はスマホを見て時間を確認した。あと20分くらいしかない。

「あの…トイレ借りていいですか」

「ああ。奥のとこ」


 俺はトイレを借りることにした。古い店の奥にはトイレがあった。リュックがあったが重いし、トイレに置き場がない可能性もあるから、椅子に置きっぱなしにした。トイレはまさしく古い定食屋にあるような和式のトイレで、固形の芳香剤が壁にかけてあった。中に造花が入ってるやつだ。今でもそんなもの売ってるんだ…俺は感動した。


 そこでのんびり用を足していると、5分も経ってしまった。俺は料理を食べる時間が無くなってしまったと思った。食べる時間がないというのも断る言い訳にはちょうどいい。俺はトイレから出て、さっきと同じ席に戻ろうとした。


 すると、そこには別の男性が立っていた。怒ったような、怪訝な顔だった。


「あんた、何してんの?」

「あ、すいません。お店の方ですか?」

「店の方って、うちはもうやってないよ。閉店したの」

「え?」

 俺は固まった。気が付けば、さっきの人はいなくなっていた。ただ、厨房には焦げた鉄のような錆の臭いと油が混ざったような、まずそうな臭いが漂っていた。

 テーブルには俺が飲んだビール缶が置かれていた。

「だって、さっき…」

「お前か。勝手に人んちに入って飯食って帰ってくのは」

「家、初めてです。今日が」

 ビールの横には、平らげられた定食用の食器が盆に入って置かれていた。

「そんなこと言って。もう十回はやってるだろ?警察に突き出してやる」

「僕はたまたまお店がやってると思って入っただけで…」

 俺は何度も説明した。

「そんな嘘つくなって」

 その人はしつこく食い下がった。ああ、もう…電車がなくなってしまう。俺は『じゃあ。これで何とか』と言って、二万円をその人に渡した。

「あと一万出したら許してやる」

 俺は財布からもう一万円出した。

「二度と来るなよ」

 その人は俺から金を受け取ると、吐き捨てるように言った。

 俺が人の家に勝手に入り込んで、冷蔵庫を開けてビールを飲んだと思っていたらしかった。俺が嘘をついていると信じているようだ。すっかり馬鹿にしたような顔をしていた。

「すいませんでした」

 俺は頭を下げて、リュックを背負ってすぐに店を飛び出した。

 踏切の警報機がカンカンカンカンと音を立て始めていた。俺は必死に駅まで走った。こんな田舎で足止めを食らうのはごめんだ。途中、振り返ることはなかったが、ずっと後ろから誰かに見られている気がしていた。


 もう。間に合わない。切符を買わずに電車に駆け込んだ。


 電車の車窓からさっきの店を振り返ると、店の明かりはもう消えていた。ビールを半分飲んだだけで三万円。とんだぼったくりだ。もしかしたら、あの客と店主はぐるで観光客から金を巻き上げていたのかもしれない。


 俺は腹立たしさよりも、人の怖さを感じた。田舎だから、素朴でいい人ばかりとは限らない。むしろ逆なのだ。


 俺はしばらくムカついていたが、落ち着きを取り戻し、リュックを開けた。すると、そこには透明の使い古したタッパーが入っていて、中身のご飯と炒り卵がぐちゃぐちゃに混ざったチャーハンが見えた。しかも、温かかった。リュックから油じみたにおいが周辺に漂った。しかも、ご丁寧に割りばしも入っていた。そんなものを食えるはずもなく、俺は黙ってファスナーを閉めた。


 さっきのじじいの方向性の間違った善意と無用な気配りに、何とも言えない脱力感を感じて電車に揺られていた。ただ、あの駅には二度と行くまい。


 俺はぼんやりとその日あったことを反芻していた。それにしても、あんな短時間でチャーハンを準備できるものだろうか。俺がいかにゆっくり用を足していたからと言って、ものの5分くらいだ。その間にチャーハンを作りタッパーに入れて、店を出ることは可能だったのだろうか。しかも、店主に見られることもなく…。もはや人間業ではないのは確かだ。俺がトイレに行きながら、異次元にタイムスリップでもしていたなら話は別だが。


 とにかく変な土地だった。俺はその日、あの駅で誰にも会わなかった。

 あのおじさんは俺がその日、初めて話した人だった。

 

 俺は意味もなく、あの日の夜のことを思い出す。気味の悪いおじいさん。


 俺の脳内には、あのおじさんが生き生きと厨房に立って、中華鍋を振るっている姿が勝手に再生されてしまう。人間ってものはみな良かれと思ってしたことが実際は裏目に出ているんじゃないか。得意になってやっていることが、実は随分と見すぼらしく、たどたどしく見えているのではないかということも。タッパーを捨てても、記憶から消そうとしても、あの夜の出来事がずっと記憶の片隅から離れないのである。


 あの店をグーグルマップで見ようとしたが、古い食品サンプルが置いてあるような店構えの建物はなかった。その駅前には、誰も住んでいないんじゃないかと思うような、トタン屋根の建物があるだけだった。俺が駅を間違っているのか。店の前にあるのが食品サンプルだと思ったら違ったのか。


 ただ言えるのは、暗闇は人に余計なものを見せるのは間違いないということだろう。現金がなくなった以外は、すべてが夢だったのではないかと思うような、そんな一夜だった。

 

 その場所に、もう一回行ってみる勇気は俺にはなかった。

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