影
ある晩、仕事から自宅のアパートに帰ると、俺の部屋に電気が点いていた。アパートっていうのは同じドアがいくつも並んでいるから、一瞬隣の家かと思った。
しかし、お隣は廊下の窓に変色した傘をいくつも並べて掛けてあるから、そこはさっき通り過ぎていた。正直言って一人暮らしでそんなに傘はいらんだろうと毎回思う。俺が引越して来てから、ずっと置きっぱなしだ。貧乏臭いし、いかにも低所得者が住むアパート風になってしまっていたが、俺はその傘を見て「やっと家に帰って来た」と毎回思うのだった。
そこのアパートは〇〇〇コーポという冴えない名前だったが、賃料が安いから気に入っていた。金額自体は驚くほどでもないが、普通より専有面積が広かったのだ。1DKの賃料で、2DKを借りられた。つまり、一部屋おまけでついて来るようなものだった。俺は収集癖があって、古書などを捨てられなかったから、2DKでも一部屋は物置で、もう一部屋を居室にしていた。
部屋はどちらも和室なのだが、入居の時に大家さんが畳を新品にしてくれたから汚い感じではなかった。もともと掃除はしないのだが。
***
話を戻すと、俺は部屋の前に立ったまま、しばらく固まっていた。今、俺の部屋には誰か知らない人がいる。しかも、台所の正面のガラスに人影がゆらゆら映っていて、換気扇も回っていた。
他人の台所で何してやがるんだろう。
俺は一人暮らしだし、今まで彼女がいたこともない。
家を行き来するような友達もいないし、一体全体、誰が俺の部屋で料理を作ってるんだろう。
母親も亡くなったし、不仲の兄が黙って俺の部屋になんか来るはずがなかった。
痴呆症の人が入り込んでいるのか。
薬中の人か。
とりあえず、警察を呼ぼう。
それには、誰かが実際に不法侵入していることを確認しなくてはいけない。
俺は静かにドアノブを回した。
すると、鍵がかかっていない。
さっと血の気が引いた。
そーっと、ドアを押した。
もしかしたら、包丁を持った知らない男が俺の方に向かって突進してくるかもしれない。そう、台所っていうのは凶器でいっぱいだ。包丁、キッチンはさみ、熱湯、油。
俺は丸腰だ。カバンをドアと自分の体の間に置いてガードした。
静かだった。
ようやく、キッチンの方を見たら誰もいなかった。
あーよかった…。
そこには、今朝俺がテーブルの上に放置した朝食の残骸が散らかっているだけだった。総菜の容器がテーブルの上にいくつも落ちていた。
一昨日残業で遅くなった時、スーパーの総菜売り場で半額に値下げされていた惣菜を山ほど買い込んで、食べたんだっけ。次第に記憶がよみがえって来た。
俺は時間がないのにコーヒーを飲もうと思って、ガスコンロでお湯を沸かしたっけ…。でも、熱くて飲めないから、氷を入れたのだが、それでも飲むのに時間がかかってしまい半分カップに残っていた。
焦って家を出たから、照明を消し忘れ、換気扇はつけっぱなしだったんだ。しかも、玄関のカギを掛けずに出勤したということだろうか…。確かにそうだったかもしれない。定かではないが。俺は自分の馬鹿さ加減を笑いながら、部屋に入った。
俺はそういう失敗が多い。
以前、ガスコンロの火を消し忘れて、鍋が煤だらけになっていたこともある。
今日は換気扇、照明、玄関の鍵の三重奏だ。
換気扇と照明はそれほど困らない。
鍵を掛けずに家を出るのはまずいが、家に金目の物がないだけマシだろうか。
印鑑は家にあるけど、通帳は持ち歩いていた。
***
俺は台所で手を洗うと、立ったまま、昨日買った総菜とおにぎりを食べた。
その後は、すぐにシャワーを浴びる。コロナ禍に突入してからはとにかく早く雑菌を洗い流すようにしていた。
シャワーの冷たい水が頭に当たって俺はびくっとした。
髪の毛を指で掻き回しシャンプーを泡立てながら、俺は今日の朝のことを考えていた。
朝飯を食べた後、眠気覚ましのコーヒーが飲みたくなった。
俺はいつも時間ギリギリに何かをする癖があった。
お湯が沸いたから、コンロの火を止めて、熱湯でコーヒーを入れた後、冷蔵庫から氷を取り出してぼとんとカップに落とした。その時、コーヒーが跳ねて床にこぼれた。急いで何かをすると、いつも余計な仕事が増えてしまう。それが俺だった。
俺はキッチンペーパーで床を吹きながら、立ち上がった時にその流れで換気扇のスイッチを切った。
そうだ…間違いない。
照明も消したし、ドアの鍵も掛けたはずだ。
鍵は財布に入れているのだが、鍵をかけ忘れるとしたら、財布ごと忘れているはずだ。会社に行った時、財布はカバンに入っていた。
泡だらけの頭をシャワーで流しながら、俺は次第に怖くなって来た。
じゃあ、誰が換気扇を付けたんだろう。
台所の窓に映った人影は一体誰だ?
俺が家に入った瞬間、誰かが奥の部屋に隠れたんじゃないか。
俺はそのことに気が付いた。
シャワーを浴びながら目はずっと風呂の折り戸の方に向いていた。
戸の向こうはダイニングだ。狭いアパートだから、脱衣室なんかない。
風呂場の折り戸は擦りガラス状になっていて、ダイニングの光が入って来るようになっている。
部屋に誰かいるんじゃないか。
念のために鍵を掛けようか…。
ほとんど意味がないけど、折り戸は覗き防止のためにロックできるようになっていた。
俺は急いで手を伸ばして、ドアをロックした。
しかし、その気になれば蹴破って入って来ることは容易だった。
台所に財布やスマホが出しっぱなしだ。
気にはなるけど裸で取りに行ったりなんかしたら、その途端に刺されてしまうかもしれない。
相手の目的はなんだ?
こんな貧乏くさいアパートに金持ちが住んでいる訳がない。
俺はここでは裕福な方だが、もっと貧乏なふりをしていればよかった。
今さらながら悔やまれた。
***
無常に時間だけが過ぎて行った。
体感としては12時を過ぎていた。
そろそろ眠くなって来たが、俺は恐怖のあまり風呂の外に出ることができなかった。
明日、会社を無断欠勤したら職場の人が尋ねて来てくれるかもしれない。以前、同僚が無断欠勤した時も何人かで見に行ったと聞いていた。その時、会社の人たちと不法侵入者が対峙して、衝突が起きるだろう。それか、俺はそこで飛び出して助けを求めることができる。
俺は朝まで風呂場にいることに決めた。
俺はずっとバスタブの中に座っていた。
しんと静まり返った風呂場では、風呂場の換気扇の音だけがしていた。
ダイニングでは誰かが歩き回っているような影がすりガラス越しに見える気がした。灰色の影が見えるような、見えないような。
勘違いのような気がするし、結局、見えたからどうすることもできない。
気を紛らわせるために、ずっと天井の水滴を見つめていることにした。
あり得ない程時間が長く感じた。
真夏でも裸は寒かった。
バスタオルも着替えもすべてダイニングの床に置いていた。
低体温にならないように、俺はバスタブにお湯を張ってその中に浸かった。
顔に伝わる汗がぽとりとお湯に落ちる。
次々と汗が伝って来る。風呂に入った意味がない。
出る前にシャワーを浴びよう。
次第に恐怖が和らいで、どうでもよくなって来た。
しかし、風呂場から出るという選択肢は俺の中にはなかった。
そのうち、深夜になると睡魔に勝てなくなり、バスタブのへりに頭を乗せたまま眠ってしまった。
***
俺が次に目を覚ましたのは、救急車のサイレンの音だった。
そのアパートは高齢者が多く、数年前にも救急車が来ていた。
あの人はその後退去していた。
施設に入ったか、亡くなったのかもしれないと思ったものだった。
うちの廊下のすぐ傍で人の話し声がしている気がした。
換気扇がどこかの話し声を拾って来るのだ。
もしかして、隣の家で誰か倒れたのかと慌てていると、何人かの人がどたどたと俺の家のキッチンに入って来たかと思うと、風呂場の折り戸をバンバンと力強く叩き始めた。
「大丈夫ですか?」
若い男の声だった。水色の服が見えた。救急隊の人らしい。なぜうちに?
俺は慌てて返事をして立ち上がった。
そして、ドアを開きながら体をドアに隠した。なぜうちに来たんだろうか。俺は何と言っていいかわからなかった。救急隊の人が俺にタオルを渡してくれた。
「タオル使いますか?」
「すいません」俺は色あせたオレンジのタオルを受け取った。体を拭いて腰にタオルを巻いた。
「ご本人ですか?」
「は、はい…」
「歩けますか?」
「はい」
俺は下半身を隠しながら籠に丸めてあったパンツを履いた。
「熱中症だと電話があったんですが、ご家族の方は?」
「僕は一人暮らしです」
「ご家族という方からお電話があったんですが」
俺は状況を理解した。
俺は一人暮らしだ。
「1分だけちょっとだけ待ってください」
俺はすぐに家中を歩き回って誰かいないか探し回った。
押し入れもベランダも誰もいなかった。
急に立ち眩みがして、頭痛と吐き気がして来た。
水分を取っていなかったから、熱中症になってしまったのかもしれないと咄嗟に思った。念のため病院の世話になろうと俺は判断した。
「風呂に入ったら頭が痛くて…」
俺は担架に乗せられて部屋を出た。
うちに忍び込んだ誰かが、俺が風呂場で倒れていると思って救急車を呼んでくれたらしい。
俺は診察券のある救急病院に運んでもらったが、緊急性が低いと見做されてその日は入院させてもらえなかった。俺は朝になるまでロビーの長椅子に勝手に寝ていた。 家に帰るのが怖かったからだ。
救急車に乗る時にカバンを持って来たけど、財布の金がなくなっていた。
実は千円札一枚しか入れてなかったのだが、小銭まで取って行きやがった。
そして、俺のスマホには119に電話した発信履歴が残っていた。
あの時、俺の部屋には確かに誰かがいたんだ。
何のために俺の家に入ったのかは今でもわからない。
財布の金もそのままだった。
でも、その人は俺が倒れていると思って救急車を呼んでくれた。
もしかしたら、俺がどうなっているか心配で見に来るかもしれない。
俺はすぐにその部屋から引越した。
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