浮気(おススメ度★)

 妻の死因は自殺だった。

 亡くなったのは三十五歳で、まだ幼稚園の幼い子どもがいた。数年に渡って不妊治療をして授かった子で、尚且つ出産前に切迫早産で入院したりと大変だった。その他にも、妻は前から婦人科系の病気も患っていた。


 子どもを授かった頃には、すでに妻との夫婦関係はもうなくなっていた。外見的な魅力どうこうというより、どうしても性格が合わなくなっていたからだ。妻はヒステリーで、とにかく言い方がきつかった。


「パパ、タバコなんか吸ってると肺がんになるよ!」

「網戸にすると排気ガスが入ってくるからやめてよ!」

「早く怜をお風呂入れてよ!夕飯食べるのが遅くなるじゃない!」


 こうやって毎日怒鳴られていた。気がつくと俺は職場の若い子と浮気をしていた。所謂割り切った関係で、普通のカップルみたいに外で会ったり、旅行するわけでもないから、誰にもばれていなかった。


 それなのに、妻は勘付いていたようだった。俺が出張から帰って来た時、妻はリビングで俺を見るなり怒鳴った。


「浮気してんでしょ!相手は誰?会社の人?」


 実は妻とも職場結婚だったのだ。誰かが妻の耳に入れたんだろうか。そんな筈はない。俺は妻が当てずっぽうで言っていると気づいた。不倫相手には彼氏がいて、すでに婚約までしていたからだ。結婚前に羽目を外したいと言うだけだった。

「何言ってるんだよ」

 俺は笑って誤魔化した。避妊具も相手の子が準備してくれるし、香水の匂いが移ったりなどもないはずだ。俺は白を切り通すことにした。

「忙しくてそんな余裕ないって」

「ちゃんと知ってるんだから」

 俺は笑った。

「浮気なんかするわけないだろう?俺みたいなおっさんに相手なんかいないって」

「盗聴器仕掛けてたの。カバンに…」

 妻は俺の目をじっと見て言った。妻ならやりかねない。

「え!?何でそんなことするんだよ!」

 俺はカッとなって言い返した。

「俺にもプライバシーがあるだろうが!」

「証拠があるのよ。録音してるんだから」

「ごめん…」

 俺はあっさり白状してしまった。妻が鎌をかけているとは思わなかったのだ。会社の鞄に仕込んでるってことは、平日仕事帰りなんかに浮気していることを認めてしまったことになる。


「私が大変なのに!自分だけ外で遊んで来やがって!このクズ!!!死んでやる!!!」

 妻は金切り声をあげた。前からヒステリー気味だったけど、その夜はちょっと違った。


「もう夜遅いのに、恥ずかしいからやめろよ!」

「もう関係ない!ずるい。あんたばっかり遊んで来て」

「遊んでるって、そんなことないって。別に楽しくないよ」

「嘘ばっかり!二人で私の悪口ばっかり言ってるくせに」

「言ってないよ」

 本当に言っていなかった。妻の悪口なんて誰も聞きたくないし、そんなことを言っていたら幻滅される。

「死んでやるうぅぅぅ!!!」

 妻は絶叫した。そして、キッチンに走って行き、包丁を取り出した。

「待てよ。子どもがいるのに何言ってるんだよ」

 不妊治療してやっと子どもができたと言うのに。俺はそこまでしなくてもと諭した。


 結局、妻は子どもが欲しかったんじゃないと思う。周囲に子どもがいるのに自分にはいないということが耐えられなかっただけだ。その証拠に、子どもに遊ぶ時間を与えずに英才教育ばかりしていた。


「もう、生きてたってしょうがない」妻は泣き叫んでいた。 

「無責任だよ。君が子ども欲しいって言ったんだろ?」

「早く死にたい」

 俺は思った。勝手にすれば、と。


 ー妻が亡くなったのはそれから数日後だった。


 その日、幼稚園から俺のスマホに電話がかかって来た。妻がお迎えに来ないと言われたのだ。俺は面倒だと思いながら、仕事を早退して息子を幼稚園に迎えに行た。どうせ家の中で寝てるんだろうと高をくくっていた。養育費を払ってもいいから、早く離婚したかった。


 なかなか迎えに来なかったと言って、ぐずぐずしている息子を叱りながら家に帰ると、玄関には内鍵がかかっていた。自力では開けられないから、俺は警察の人に来てもらった。


 警察の人にインターロックを空けてもらって中に入ったら、妻の靴は玄関にあった。

「ママ?いるんだろ?」    

 俺は家中を探した。すると、妻は寝室のクローゼットで首を吊っていたのだ。その時、俺は家が事故物件になってしまったと悟った。首吊りはきれいなもんじゃない。排せつ物が床に流れ出していた。


 ベッドの上にきちんと遺書も置かれていた。


『主人の浮気、暴力、ギャンブルに耐えられなくなりました』


 俺は浮気をしたのは認めるが、暴力やギャンブルはない。株をギャンブルと言うならそうだろうけど、自分の金を何に使っても文句を言われる筋合いはない。


 普通こんな死に方をする人がいるだろうか。俺はの当てつけに自殺を図るとは。母親なら息子をお願いします、等と書かないだろうか。多分だけど、俺に対する腹いせで自殺未遂をしようとしたら、本当に亡くなってしまったのかもしれない。


 それから俺はシングルファザーになった。息子はまだ三歳で、妻がいないと言って毎日泣き叫んだ。俺が浮気相手の女の子に相談すると、同情して家まで来てくれた。息子は彼女、美佐子に良くなついた。美佐子は母性に溢れた子で息子かわいさに毎日来るようになった。息子は帰らないでと泣く。すると、美佐子は泊って行くようになった。俺は彼女の優しさに惹かれて、彼氏と別れて結婚しないかとプロポーズをした。


「そう言ってくれるのを待ってたんだ」


 微笑む美佐子は神々しかった。俺なんて妻に自殺されてしまったし、女性ならみな避けて通るような男だ。まさか、承諾してくれるとは思わなかった。若い美人の妻。災害の後に現れた女神のようだった。俺たちは毎晩川の字で寝た。息子が寝ている間にこっそり起きて二人で別の部屋で行為をした。幸せだった。前の結婚を含め、初めて家庭に安らぎを覚えた。


 入籍してひと月も経たないうちに、美佐子は妊娠してしまった。元妻が不妊だったから俺も油断していたと思う。俺はすぐに息子に妊娠を伝えた。


「怜、お前、お兄さんになるんだぞ。嬉しいだろ?」

 息子は首を振った。

「兄妹なんかいらない」

「何で?」

「だって、邪魔だもん。赤ちゃんて臭いし。だいきらい」

「何言ってるんだよ」

「そうよ。生まれたらかわいいよ」


 美佐子はそう言って笑った。


「生まれて来たら僕、川に捨てに行くもん。そしたら誰か拾ってくれるよ」

「その前に死んじゃうよ。桃太郎の話は作り話なんだよ。絶対そんなことしちゃ駄目だぞ」

 息子は何も答えなかった。まだ幼いのにものすごく賢い子どもだったのは間違いなかった。

「もし、赤ちゃんが生まれても怜のこともずっと大事だからな」

「そうよ。怜君に対する気持ちは今までと変わらないよ」

 美佐子は笑顔で言った。

 

 そのうち怜は美佐子に寄り付かなくなっていた。幼稚園の送迎の時は一緒にいるが、それ以外の家にいる時間は、いつも一人で遊んでいた。やがて俺は幼稚園の先生から変なことを聞かされた。


「ママはパパが浮気したから自殺したんだよ。今、パパは浮気してた女の人と結婚したんだよ。赤ちゃんは呪われてるんだって、ママが言ってた…って言うんです」

「そうですか…」

「ちょっと不気味で。お母さん亡くなられてるし…自殺だったんですか?」

「それはちょっと…」

 その先生も詮索好きで面白がっているように感じた。

「赤ちゃんが産まれるので、きっと寂しいんだと思います。母親も亡くなったばかりなので…」

 そう言えば妻が亡くなってまだ半年も経っていなかった。俺たちは妻の生前から不倫をしていたこと、妻がそのことで苦しんでいたであろうことは、周囲の人たちも容易に想像がついただろう。


 呪われた子。その言葉が重くのしかかった。幼稚園でのことは美佐子には黙っていたが、彼女も亡くなった妻に悪いことをしている気がしていたようだ。そのことを気に病んでいた。確かに、普通の神経なら俺たちは別れるべきだったろうと思う。


「奥さん、知ってたのかな。私たちのこと」

「全然。だって、俺たちLineもしてなかったし」

「怜君がね、パパと美佐さんは不倫してたの?って聞くの。どうしてそう思うの?って聞いたら、ママが教えてくれたって言うの。怖いでしょ」

「うん。怜のやつ幼稚園でも、俺が浮気してあいつが自殺したって言ってるんだって」

「怖いね。子どもなのに。不倫なんて意味、普通わからないじゃない」

「あいつ、頭だけはいいからな」

「どうするの?」

「気にしなくていいよ」

「今のままだと、私、子どもおろして離婚するからね!」

「わかったよ…」


 俺は悩んだ。そして、実家に相談して、息子を預かってもらうことにした。赤ちゃんが生まれるからと本人には言ったが、祖父母が大好きだからと喜んで出て行った。俺の両親は元妻を嫌っていた。暗くて気が利かないとずっと言っていたのだ。それに引き換え、愛嬌のある美佐子は好かれていた。それを見た息子はどう思っただろうか。


 俺は母に電話を掛けた。

「お母さん、怜のこと、ずっとそっちで預かってもらえない?美佐子のこと嫌ってて」

「うちはいいけど…帰りたがらないかな?」

「うん。そっちの方がいいんじゃない?」

 怜は俺になついていなかった。

「でも、田舎だから何にもないよ。子どもも少ないし」

「すぐ慣れるよ」


 俺たち夫婦は長男のことは忘れることにした。


 すると、母から電話がかかって来た。

「どうしてる?美佐子ちゃん、出産の時、実家に帰るの?」

「帰らないって。あいつ母子家庭だから。うちにいるってさ。俺の会社、男も産休取れるから、俺が二週間休むことにしたよ」

「そう。私、手伝わなくていい?」

「大丈夫。俺も子育てしたことあるからさ」

 すると母は黙った。

「ねえ、怜君が言ってたけど、あんた、美佐子さんと不倫してたの?」

「うん。実はそうなんだ。あいつ、そんなこと言ってたの?」

「うん。ママが美佐子さんのせいで自殺したって言ってるよ」

「きっと恨んでるんだよ。俺たちのこと」

「ちょっと再婚するのが早かったよね…」

「最初はなついてたんだけどなぁ…」

「子どもは繊細だからね。子ども作るが早かったんじゃない?」

「でも、できちゃったからさ。堕すわけにいかないし…」

「怜君はどうするの?」

「養子に出そうかな」

「何、馬鹿なこと言ってるの!邪魔になったからって捨てるの?」

「金送るから面倒見てくれない?ほんとごめんね」


 俺の手取りは月50万くらいだったけど、そのうち10万円を実家に送ることにした。


 美佐子は身重の体でも、出産ぎりぎりまで会社で働いていた。俺たちが不倫をしていて再婚したことについてはみな知っていたが、美佐子は気にしていなかった。俺に金がないことがわかっていて、無理をして働いていたんだと思う。


「今日、病院に行ってエコー取って来たんだけど…子どもの様子がおかしいって」

「なんで?」

「障碍があるかもしれないって」

「どういう障碍?」

「生まれてみないとわからないって」

「もう、堕せないんだっけ?」

 俺は当たり前のようにそう言ってしまった。

「え、何言ってるの?」

 美佐子はびっくりしたような声を上げて、俺をののしり始めた。

「せっかく生まれて来るんだよ!堕って何よ!」

「ごめん…」

「それでも父親なの?」


 それからしばらく美佐子は口をきいてくれなかった。毎日謝って、家事を手伝って、ようやく喋ってくれるようになってからも、俺たちの関係はぎくしゃくしていた。


 そして、出産の日がやって来た。自然分娩だった。美佐子の家族は北陸にいて、誰も来なかった。俺だけが病院に駆けつけて出産まで待ったけど、生まれたのは日付が変わってからだった。二十時間以上の陣痛で難産だったらしい。


 生まれる前から赤ん坊に障害があることは医者から聞かされていた。妻がショックを受けないように、しばらく親子の対面はなかった。妻は出血がひどくて寝たきりだったけど、ずっと「赤ちゃんは?」と俺に聞いていた。


 子どもは生まれつきの障碍児で性別は男子。自力で母乳を飲むこともできなかった。さらに肛門がなかった。妻は一週間で退院したが、赤ちゃんはずっと入院したままだった。


 俺の育児休暇が終わった翌日。妻は病院に行くと言っていたから、俺は普通に会社に出勤した。その間に、妻はそのまま荷物をまとめて出て行ってしまった。


 妻が出生届を出す予定だったのだが、出したのかどうかわからないままだった。出産前から名前を考えていたけど、やっぱりやめて、芸能人の名前を取って出すことに決めていた。予定が狂ってしまったことを考えたくなかったからだと思う。


 しかし、結局、出生届を出さなくてはいけない14日を過ぎてしまい、そのままずるずると日が経って行った。


 病院から毎日連絡が来たけど、俺は無視し続けていた。最終的に警察から連絡が来て、かなり怒られたけど、育てられないと言うことで、子どもは施設に入ることになった。


 俺は、事故物件になった家を格安で売った。妻が自殺したクローゼットはどうしても匂いが取れなかった。それでも、欲しいと言ってくれる人がいて、今は別の人が住んでいる。しかし、床を張り替えても、臭いが残ってどうしようもないと言うことだった。


 どんな臭いかは俺にもわかる。

 

 今でも、その時の臭いがふと漂って来ることがあるからだ。

 

 

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