たばこの煙

*別建てで書いていたものの再掲載です。


 子どもの頃、近所にベビースモーカーのおじいさんがいた。年齢は80くらいだろうか。タバコの煙なのかヤニなのか知らないけど、とにかく臭いが強烈だった。元々の体臭と混ざったような、熟成された臭いで、一度嗅いだらトラウマになるほどだった。おじいさんの家には風呂がなくて、銭湯に通っていたそうだから、毎日体を洗っていなくて、服や体に臭いがこびりついていたのかもしれない。

 

 吸っているタバコはショートピースという銘柄。ショートピースは現在唯一残る両端切りタバコで、フィルターがない。ニコチンも確か一番多くて、いかにも体に悪そうだ。吸うと痰が出ると聞いたことがある。俺はタバコを吸ったことがないから、銘柄について多くは語れないけど、おじいさんは肺の中も真っ黒だっただろうと想像する。


 おじいさんの逸話ですごいのは、外を歩いた後でも、しばらくその場に臭いが残っているほどだったってこと。だからと言って、目の前を歩いているからじゃなくて、本人がいなくても、あ、お爺さんがここを通ったんだとわかるほどだった。灰皿がそこにあるかと思うほど、臭いが強かった。バキュームカーくらいの匂いなら、しばらくその場に残るかもしれないが、いくら香水臭い女の人だって、そこまでにはならない。だから、今思うと不思議だ。


 我が家とおじいさんは親しくはなかった。ただ、近所に住んでいて、会えば会釈するという間柄だった。特に俺は子どもだから、おじいさんとは接点がない。

 でも、何故か気になってしまうような人ではあった。その人の容貌は大柄で、太っていて、白髪頭の坊主。服装も何もかもが埃っぽい感じだった。もともとの仕事は大工等の職人さんだったと聞く。家は平屋の貧乏な借家住まいで、一人暮らし。もともとは妻子がいたけど、おじいさんの家庭内暴力で出て行ったそうだ。田舎に住んでいると、こんな風に近所の家庭環境はすべて筒抜けだ。


 俺は子どもながらに、こんな年の取り方はしたくないと思っていた。家族に暴力を振るうのはよくないし、自業自得だけど、おじいさんを気の毒だとは思っていた。


 そのおじいさんが、亡くなったのは俺が小学5年生の時。亡くなったけど、身寄りがなくて、警察が遺体を引き上げて行ったと聞いた気がする。俺が学校に行っている間に起きた出来事で、俺が帰った時に、母親から聞いたんだ。


「さっき、タバコのおじいさんが家で亡くなったんだって。まだパトカーいる?」

 母親はきっと外まで見に行っただろうと感じた。近所にパトカーなんかが来たら、みんな興奮してすぐに飛び出して行ったもんだ。田舎はニュースがないから、そういう身近な事件が楽しみだった。

「いなかった」

 俺も興奮していたけど、淡々と答えた。パトカーや救急車が来ていたのを見れなくて、すごく残念だった。


 俺はその日、自転車に乗って友達とおじいさんの家を見に行った。玄関周りはきれいに片付いていた。うちの実家みたいに、外にものを出しっぱなしにしている、というのもなかった。別に事件現場みたいに立ち入り禁止にはなっていなくて、いつもと何も変わらない景色。そうやって、ガラスのはまった木製の引き戸が閉まっていると、おじいさんがまだ中にいるような気がした。でも、実際はいないんだと思うとちょっと寂しかった。それに、おじいさんのタバコの臭いは外からは感じられなかったし、まるで空き家のようだった。


「あのおじいさん、すげータバコ臭かったよな」

 友達がさも軽蔑したような言い方で話し始めた。俺は死んだおじいさんに聞こえるんじゃないかと思って、冷や冷やした。

「うん」

「きっと肺がんで死んだんだ。タバコを吸ってると肺がんになるんだって」


 当時は喫煙者が多かった。大人の男はみんなタバコを吸っていたもんだ。でも、40年前は癌は稀な病気だった。俺の親せきでがんで亡くなった人は、多分1か2人しかいない。今では珍しくないけど、癌イコール死を連想させた。実際のおじいさんの死因はわからないのだが。

 

 俺は怖かった。癌は移る病気じゃないのだが、感染症の人が亡くなった家のように思えて仕方なかった。それに、おじいさんが狭くて暗い部屋で、一人病気で苦しんでいる様子が目に浮かんで来た。そういえば、しばらく姿を見ていなかったけど、病気で外に出れなかったんだろうか。俺は近所に住んでいながら、何もしてやらなかったことに、罪悪感を感じていた。


***


 俺たちはその後、いつものように公園に遊びに行って、家に帰った。


 夕飯を食べた後、俺は自分の部屋に行き、寝転がって漫画を読んでいた。何回読んだか忘れるくらい、繰り返し読んだ漫画だった。親があまり物を買ってくれなかったからだ。多分、タイトルは”キン肉マン”だと思う。

 

 すると、ぷーんと変な臭いがしてきた。俺はぎょっとした。あれ、この臭い・・・亡くなったおじいさんだとすぐに分かった。


 おじいさんの臭いが部屋中に満ちてきた。


 え?今、ここにいるの・・・?何でうちに?


 俺はその日の行動を振り返った。おじいさんの家を見に行ったこと、かわいそうだと思ったこと。


 霊は同情するとついて来るというから、きっと俺の所に来てしまったんだ。俺は「ごめんなさい」と何回も謝った。それでも、おじいさんはいなくならなかった。

「今度、たばこ買ってお供えします」

 俺は手を合わせてそう約束した。それでも、おじいさんの臭いは消えなかった。


 俺は次の日、たばこ屋にピースを買いに行った。うちの父親が吸っていたのは、ラークだったから、店のおばあさんに「本当にこれでいいの?」と念を押された。俺は黙ってたばこを部屋に持ち込んで、机の上に置いた。


「たばこ、買ってきたよ」


 俺は人と喋るのが苦手で、その時ですら、かなり勇気を振り絞ってその言葉を言った。


 その夜から、おじいさんはよく俺の部屋にやって来るようになった。最初はライターで火をつけた時のような、ちょっといい匂いがして、その後、部屋が煙くなった。俺はおじいさんの孤独がわかる気がしたので、部屋から追い出す気はなかった。


 それから、しばらくして、母親が俺の部屋に入った時、タバコ臭いと言って怒られた。すると、母親はすぐに父親にチクって、父親には思い切り殴られた。しかも、ピースみたいなきついタバコを吸っていたことも、親たちはあり得なかったらしい。


 だから、おじいさんがそこでタバコを吸っていたのは、俺の勘違いではないと思う。


 そうやって、タバコは取り上げられてしまったけど、俺はまた新しいタバコを買って、机の中に隠しておいた。そして、夜になると取り出して、おじいさんを迎えるという秘密の儀式を始めた。俺がおじいさんを感じたのは臭いだけだ。あとは何もなかった。死んでもなお、臭いだけは残るほど強烈だったのか。


 今も俺の家のキッチンには、ピース缶が置いてある。もう、おじいさんは来ないけど、換気扇の下でタバコに火をつけてやる。まるでお香みたいに。その煙が、たまらなく臭い。


 俺はタバコの臭いを嗅ぎながら小学生の頃を思い出す。古くてネズミのいる不衛生な家で、赤いシミだらけのじゅうたんの部屋に寝転がって、漫画を読んでいた頃を。全然楽しくなかったけど、なぜか懐かしい。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る