飛蚊症

 みなさんは飛蚊症が何だか知っているだろうか。飛蚊症は目の中に虫のような浮遊物が飛んでいるように見える症状だ。ごく一般的なもので、病気というほどのものではない。


 飛蚊症は加齢とともに発症し、60歳以上の人の半分に自覚があると言われる。しかし、現在はスマホやパソコンの見過ぎで目を酷使している人が増えていて、若い人でも飛蚊症を発症する人が増えているそうだ。


 俺は小学生の頃から飛蚊症だったから、視界の全体に微生物みたいなのが浮いているのが当たり前で、何もない状態で物を見たことがない。飛蚊症がなかったら、もっと景色がきれいに見えるだろうと思う。


***


「最近、目の中に虫みたいなのが飛んでるように見えてさ」

 会社員のAさんは、隣の席の後輩に何気なくそう言った。55歳のサラリーマンだ。

「飛蚊症ですか?僕もですよ」

 その人はまだ35歳くらい。

「え?そうなの?気にならない?」

「慣れますよ。僕も3年くらい前になったんですけど、今は全然気にならないですよ」

「病院とか行った?」

「いいえ。親がみんなあるから大丈夫って言ってたんで。でも、気になるんだったら行った方が・・・」

 Aさんの症状は透明な微生物のような影が見えるだけだった。自分は年だし、多少目の不調があってもおかしくはない。きっと生理的なものだろう。近所にも眼科があるが、平日は6時で閉まるし、土曜日はすごく混んでいた。お年寄りが多いから、席が足りなくて、患者が床に座っているほどだった。Aさんは有休を使いたくないから、病院に行くのは見送った。


 しかし、仕事をしていると飛蚊症が気になった。明るいところにいると、視野の中に浮かぶゴミが余計に目につく。いつもそのゴミを視線で追いかけるようになっていた。すると、ゴミは視線と一緒に動いてしまい、じっくりと見ることが難しかった。これは何だろう。血管?それとも、水晶体の中の濁りだろうか。


 数日経つと、それがススのようにどんどん広がって行く。まるでカラスの大群が迫ってくるかのようで、視界の中を不気味に移動していく。上に行ったり、下に行ったり。羽ばたくわけじゃなく、まるで書割みたいだった。


 なんだろう・・・。

 怖いな・・・。


 Aさんはその日、会社を早退した。それほど忙しい時期ではないし、何となく仕事をする気になれなかったからだ。


 家に帰って、風呂に入ってからとりあえず横になった。明るい部屋で白い天井を見ていた。

 

 その集まった影が何かの形に見えてきた。なんとなく髑髏のようだった。目のあたりが空洞になっている。それが視界全体に広がって行く。


 Aさんは目を開けるのが怖くなった。とりあえず寝て、明日眼科に行こう・・・。Aさんは眠った。


 その夜、Aさんは夢を見た。自身はドローンのように空から自分を見下ろしていた。枯草の生えている寒々しい高原で、服を着て外に寝ている。周囲にはカラスの声がこだましていた。Aさんは上から見ているのと同時に、寝ているという意識も持っていた。目を開けようとしても開かないし、腕を伸ばそうと思っても持ち上がらなかった。


 すると、バサバサっと大きな鳥が羽ばたく音がして、耳元に鳥が舞い降りて来た。寄生虫がついていそうだ・・・Aさんは思った。カラスがAさんの洋服をついばんだ。Aさんは声を上げて追い払おうとするが、体が動かなかった。


 やめろ・・・。


 Aさんがいくら心の中で叫んでも、どうしても声がでなかった。その後も、別のカラスが何羽もAさんの近くに舞い降りた。助けて・・・。身の危険を感じ始めていた。


 カラスはAさんの髪や顔をつつき始めた。カラスの嘴は硬くて痛い。Aさんは自分の顔の皮膚が破れて、血が出ているのに気が付いた。・・・目はやめてくれ!・・・Aさんは声を上げたかったが、どうしても出なかった。カラスは容赦なく、Aさんの目をつついてくる。目玉を抉り出そうとしているみたいだった。まるで、シャベルのように両目を掘り出すと、二羽のカラスは飛び去った。ものすごい痛みで、Aさんは叫び声をあげた。


 部屋の中は真っ暗だった。目を触ると、瞼に異常はなかった。


 Aさんはまた眠った。


 ずっと夜のままだった。空腹でたまらず、トイレに行きたくても、体が動かなかった。そのまま体が動かないから、失禁してしまった。携帯が鳴っても出ることができない。何度も何度も鳴っていた。きっと会社の人だ・・・。恥ずかしいけど、来てくれないかな・・・。

 でも、会社の人は来なかった。Aさんは悪臭の漂う部屋で眠り続けた。


 発見されたのは3日後だった。心配した会社の人が管理会社の人に頼んで鍵を開けてもらったそうだ。Aさんの視界は真っ暗だった。まるで、夜中みたいだった。


「目が見えないんだけど・・・救急車呼んでもらえない?」

 それを言うのが精一杯だった。 


 

   

  

 

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