民宿

 俺は若い頃、旅行の時によく民宿に泊まっていた。一人旅の場合は、安く泊まれればよかったから、2食付きで6500円くらいの民宿は一番手頃だった。風呂とトイレが共同。食事は当たり外れがあるけど、貧相ということはない。


 不満があるとしたら、隣室が宴会なんかやってると夜遅くまでうるさいし、トイレが共同だから、夜中行きたくなると怖かったということくらいだ。民宿なんか嫌という人も多いだろうけど、俺は寝られればいいから、寝具にこだわりもない。だから、誰にでも勧められるわけではないけど、悪くはないと思っている。


 でも、20代の頃、怖い体験をしたことがある。俺は夜中トイレに行きたくなった。移動中の電車で寝てしまうと、夜はあまり寝れなくなってしまう。その夜もそうだった。

 民宿は大体二階建てで、ワンフロアにトイレは一箇所。廊下は電気がついていたけど、人気がなくて静かだった。もし、別の部屋から誰か出てきても危ないことはないだろうに、俺は一体何が怖かったのかわからない。


 民宿でも、トイレは、男女分かれているのが普通だが、ドアは白い化粧板が貼るもので、中は見えない。俺がドアを開けた時は、男子トイレは電気が消えていた。電気をつけて、目の前に小便器二個と個室が見えても、まだ何か潜んでいるようで怖かった。


カタカタいう木のサンダルに履き替えた。


 すると、個室は一個しかないのに、使用中で閉まっていた。誰が入ってるんだろう。暗がりで何してるんだろうか。酔っ払って、寝ているとかならわかるけど、後からトイレを使った人は、電気を消して出て行くだろうか。


 俺は怖かったけど、小便をしに行って、そのまま部屋に戻れないから、速攻で用を済ませて、歩きづらいサンダルでドアの所まで戻った。すると個室からガタンという音がした。


 俺は心臓が止まりそうになった。急いでスリッパに履き替えた。


 すると、トイレットペーパーをカラカラと巻き取る音がした。俺は慌てて廊下に出た。後ろから水を流す音が聞こえた。俺はスリッパの状態で走って部屋に駆け込んだ。


 中にいたのが誰か見届けたかった。それなのに、中の人は出て来ない。気になってドアを開けたままにして、廊下を見ていたが、何分待ってもそのままだった。


 もう一回トイレに行ってみようか。俺はせっかくだから、種明かしをしてほしかった。俺は勢いよくドアを開けた。


 すると中から人が飛び出して来て、俺の肩にぶつかった。びっくりしたけど、ふしぎなほど衝撃がなかった。しかも、廊下を出て右か左かどちらに行ったかわからない。ただ、さっきと同じように、物音ひとつしない静かさが広がっているだけだった。


 俺は怖くなって、部屋に戻ると布団を被って朝まで、まんじりともしなかった。会計の時、人がいないのを見計らって俺は尋ねた。


 対応してくれたのは、75くらいのエプロン姿のおばさんだった。顔はシワシワだけど、髪だけ真っ黒。いかにも染めた感じだった。一人で掃除も料理も全部やってるんだろうか。忙しそうだった。


「夜中トイレに行ったら、幽霊がいたけど、何かあったんじゃありませんか?」ちょっと、直球過ぎたかもしれない。

「いいえ、別に何もありませんよ。10年前に、個室で自殺した方がいましたけどね」

 おばさんは変な顔をした。

「どんな風に亡くなったんですか?」

「夜中、トイレで首を吊ってて、、、」

「でも、そんなの部屋でやればよかったんじゃないですか?」

「その人は、会社の人と出張で泊まってて」

「部屋まで一緒だったんですか?それはストレス溜まりますよね・・・」

「しかも、3ヶ月。近くの工場に出張してて」

「はぁ、、、」

 俺は想像してみた。恐らく、金のない会社に勤めてたんだろう。会社の人と同室で3ヶ月過ごすなんて、頭がおかしくなりそうだった。

「これで、お線香とお酒をあげてください」


 俺は千円多く渡した。定期的にやってもらえるように、もう少し渡せばよかったと後で思った。


「わかりました」

 おばさんは返事したが、多分、やらないだろうなと俺は思った。


 俺の肩には、昨夜のその人の感触がまだある。まるで、空気砲でも打たれたみたいな感じだった。質量のない物がものすごい勢いでぶつかって来たような・・・。

 彼は夜中トイレで一人で一息ついて、部屋に戻っていたんだろうと思う。昨夜もそうやって、俺にぶつかりながら出て行ったんだろう。

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