羊牧場

 これは人から聞いた話だ。その人の友達のことだそうだ。


 Aさんという女性がいて、20代の派遣社員だった。

 旅行が好きでよく一人旅をしていたそうだ。別に友達がいないとかではなく、単に一人気ままにというのが好きだったらしい。


 彼女が一人で北海道を旅行していた時、ふとしたことから地元の男性と知り合ったそうだ。


 彼女が外を歩いていたら土砂降りになってしまった。そこを通りかかった若い男が車に乗せてやった。


「家がすぐそこだから、雨宿りしたらどう?」

「え、いいんですか?」

 

 そして、男はタオルを貸してくれ、部屋にあげて、お茶を入れてくれたらしい。

 男は一人暮らしだったそうだ。

 これで警戒しないAさんはやばいと思うが、もともと素直な性格でそんなにきれいな人でもなかったらしい・・・と、彼女の友人が言っていた。

 男は紳士的だった。


「一人旅なんて珍しいね」

 男は言った。

「俺は仕事休めないから旅行なんかしたことがなくて・・・」

 男は確か牧羊家だったらしい。動物がいると家を空けられないもんだ。普通のサラリーマンが忙しいと言うのとはわけが違う。Aさんは、羊をかわいがって丁寧に育てている男に惹かれた。


「ご迷惑でなかったら羊を見せてもらえませんか?」

 Aさんは頼んだ。

 Aさんはもともと動物が好きで、特に羊のぬいぐるみが好きだった。

 ふわふわの毛に触れて、餌をあげたりしているとすっかり楽しくなってしまった。

 羊は穏やかで従順な性格なので、男によくなついていた。Aさんはすっかり羊たちと、その羊たちから慕われている男に魅せられてしまった。


 Aさんが、羊を「連れて帰りたい」とか「一匹ほしい」と言っていたので、男は家に泊まっていかないかと誘った。Aさんはその後の予定をキャンセルして、最終日まで男の家にいて一緒に羊の世話をすることにした。


 男の羊牧場はまだ小規模だった。それでも、60頭ほどいた。春だったから、子羊もたくさんいた。それに、ネズミ駆除のために猫も飼っていて、それはそれは楽しい暮らしだった。

 毎日、羊小屋の掃除、藁を敷き、水と餌やり、外に出して運動させてと充実していた。Aさんは3日ほどそこにいた。


 Aさんは東京に戻ってからも、羊牧場が忘れられなかった。

 男と連絡を取って、給料はいらないから手伝いたいと申し出た。男も喜んで受け入れた。Aさんは派遣期間満了を待って北海道に移住することにした。


 男はAさんが来るタイミングで結婚を申し込んだ。この時はまだ2人は付き合っていなかったが、Aさんは運命を感じて承諾した。そして、戸籍謄本を取り寄せて、転出届を出して、北海道まで持って行った。

 

 男はAさんを迎えに行くと、その足ですぐ役所に行って2人で婚姻届けを出した。役所の人も知り合いなので、その場ですぐに婚姻届けの証人になってくれたそうだ。


 Aさんは羊牧場で、かわいい羊や猫たちと暮らせると思い、ワクワクして車に乗っていた。

 しかし、男が着いたのは、あばら屋という呼び方がしっくり来る、別の建物だった。床は傾いてギシギシ言っていた。1ルームでベッドと机以外は何もない。しかも、ベッドはシングルだった。


「あれ、この家は?」

「あ、これは俺の家」

「え?前に行った所は?」

「あれは、オーナーの家だ」

 男はあの羊牧場はオーナーが持っている物で、自分はそこに雇われていると白状した。あの時はたまたまオーナーが札幌に行っていていなかったそうだ。Aさんは、自分が勝手に男の持ち物だと思い込んでいたんだと自分を責めた。男は一人暮らしだとは言ったが、あの家に住んでいるとは言っていなかった・・・。

 

 男はこれからオーナーに会いに行こうと誘った。

 オーナーに会うと、「俺の嫁さんです」男は嬉しそうに報告した。

 オーナー夫婦は70代くらいの上品な人たちで、2人を夕飯に呼んでくれた。4人分準備されていたから、もともと、婚約者が来ると伝えてあったようだった。


 オーナーと男はもともと親戚のようだった。定職のない男をそこで働かせてくれているらしかった。長く精神病院に入院していたが、今はだいぶ落ち着いているそうだ。Aさんは結婚は間違いだったと悟ったが、田舎で車社会だから、簡単には逃げられそうになかった。


「将来は〇〇君にこの牧場を譲るつもりなんだよ。あと、この家も」

「そうそう。うちの子供たちは興味がないし。田舎の家なんて価値がないからね」

 Aさんはほっとした。男の嘘もすべてが完全なでっち上げではなかったからだ。


 オーナー夫婦は男が結婚した同じ月に、お祝いを兼ねてその家を譲ってくれ、別の所に引越していった。Aさんにとってはオーナー夫婦が心の支えだったので、二人がいなくなって精神的に不安定になってしまった。

  

 それに、Aさんは重大なことを見落としていた。

 羊を飼っているのは、羊毛を取るためではない。食肉用なのだということを。

 毎月、かわいがっていた羊の何頭かは食肉センターに運ばれて行った。

 そのトラックを自分が運転することもあった。

 ハンドルを握りながら涙が止まらなかった。


 かわいい子羊は生後3か月くらいで、ベイビーラムとして食肉にされた。もう少し大きい4~10か月の子たちははラム肉として。その先は、ホゲット、マトンと名称が変わるらしい。


 羊が生まれても、生まれても、どんどん肉にされていく。

 そこはまるで死の工場のようだった。

 

 今、Aさんは羊小屋で、羊たちと一緒に暮らしているそうだ。

 自分を羊だと思い込んでしまい、自分が出荷される番を待っている。

 暴力をふるう夫よりも、優しい羊たちの群れの方が安全だから・・・正気の時のAさんはそう言っていたそうだ。

 

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