これは俺が学生時代の話だ。


 俺は商店街に面したマンションに住んでいた。

 一階はオーナーの人がやっている店舗で、それ以外の階は居住用にして賃貸していた。

 その向かいの家は、多分、ビルの持ち主が住んでいたんだろうと思う。


 もう何十年も前の話だから告白するが、俺は向かいの家をいつも覗いていた。そこには、ビルオーナーと思われる夫婦と子供たちが住んでいたのだが、俺の部屋の方が少し高い位置にあって、ちょうどよく覗けるようになっていた。俺は黒っぽい色のカーテンをかけていて、覗くときは明かりを消していたから、向こうからは絶対わからなかったと思う。


 時々、オーナーの奥さんや子供たちが、風呂上りに素っ裸でリビングを歩いていたりした。暑い時期になると、夜は窓を開けて網戸だけにしていたから、あちらからこちらは見えなくても、俺の部屋からは丸見えだった。


 30代くらいの人妻の裸はそんなにきれいなもんじゃなくて、奥さんは腹が出ていて、胸も垂れ下がっていて、髪はぼさぼさ。顔は土色で縄文人みたいだった。それでも、彼女のいない身としては、生の裸は珍しかった。


 子供は小学校低学年くらいの男の子と、4歳くらいの男の子だった。小さい子はよく裸で走り回っていた。


 旦那も同じ30代くらいだったけど、よく全裸でリビングを歩いていた。

 俺の父も母も家族の前ですら、そんな恰好でいたことはないので、こういう家族もいるんだなと思った記憶がある。


 夏の間、オーナーは窓際のテーブルにビールとおつまみを置いて、パンツだけ履いて晩酌していた。


 俺は自宅にいる時は日課のように、お向かいを覗いていたが、テレビなんかよりもずっと面白かった記憶がある。もちろん、冬は窓を開けないから見れなかった。


 ただ、それだけだった。それでも、他人の生活の一コマを覗くのはワクワクするような興奮があった。


 また夏がやって来た。久しぶりにお向かいの家を覗いたら、家族が3人に減っていた。小さい方の子が全く見えなくなってしまったのだ。入院でもしたんだろうかと思った。そうでなかったら、養子に出したとか・・・、監禁されているとか・・・。ひと夏ずっと姿が見えなかったから、もしかして、死んでしまったんじゃないかと思うようになった。


 風呂上がりによく走り回っていて、声の大きい元気な子だったのに。俺は心配だった。男の子がいなくなっても、家族は前の通り仲がよく、にぎやかだった。なんて薄情な家族だ。俺は男の子がかわいそうになった。


 休日に、俺がマンションから外に出ると、たまたま目の前のマンションのオーナー一家が出かけるところだった。やっぱり小さな男の子はいなかった。両親と小学生の男の子。俺は目があったので、頭を下げた。


 それからしばらくして、その家の男の子が目の前の道路にチョークで落書きをしていたことがあった。俺は弟はどうしたの?と聞いてみようと思った。


「何て書いてるの?」

 俺は子供に声を掛けた。

「あみだくじ」

「やってみていい?」

「うん」

 俺はあみだくじをやってみた。行きついたのはうんこだった。

「うんこってどういう意味?」

「はずれ」

 俺は笑った。

「当たりは何なの?」

「まだ決めてない」

「はは。うんこばっかりじゃねぇか」

 男の子はチョークを俺に分けてくれて、そうやってしばらく遊んでいた。

「どこに住んでるの?」

 男の子は尋ねて来た。

「ここのマンション」

「何階?」

「3階」

「一人暮らし?」

「うん。そうだよ」

「独身?」

「うん」

「彼女いる?」

「いない」

「寂しいね」

「余計なお世話だよ」

 俺は情けなくなって笑った。教育実習の先生みたいになって来た。

「そんなに簡単に彼女なんてできないから。君も中学生くらいになったらわかるよ。好きな子いる?」

 そんな話をすると子供だから本気で考えていた。

「うん」


 そのうち、母親が下りて来た。知らない男と喋っているで心配になったんだろう。怪訝けげんそうな顔をして「こんにちは」と俺に声を掛けて来た。

「こんにちは。子供の頃、こういう風に道路に絵をかいたりしてたのが懐かしくて」

 俺は怪しまれないように言った。

「向かいのマンションに住んでる者です」

「あ、そうですか」

 お母さんは少し安心したようだった。俺はその人の裸を見たことがあったから、少し照れた。化粧をしたらけっこうきれいな人だったのが意外だった。

「学生さん?」

「はい」

「〇〇大学?」

「はい」

「えー。すごい。このお兄ちゃん、すごい頭いいんだよ」

 何だかちょっと変な感じになって来た。このおばさん、俺に気があるんじゃないかと思った。

「いやぁ。僕はそうでもないですよ」

「学部どこですか?」

「経済」

「へぇ。すごい」

「いやぁ。全然ですよ」

 お母さんは、俺が大学に入るまでどうやって勉強したかを尋ねて来た。最終的には、家庭教師を頼みたいと言い出したので、俺は断った。


「息子さん、兄弟は?」

「うちは一人っ子」

「え?」

 俺は驚いた。

「あれ、前に幼稚園くらいのお子さんいませんでしたか?

 お母さんは笑った。

「弟がいたらいいんだけど。なかなかうまくいかなくて」

「すいません。変なこと聞いちゃって。前に小さいお子さんと一緒に歩いてた気がしたので・・・」

 きっと親戚の子供かなんかだったんだ。

「誰だろう・・・」

「去年の夏くらいにお見掛けしたような・・・」

 俺はどうしても気になるので、しつこく聞いてみた。

「たぶん、うちじゃないと思う。本当に一人だから」


 俺は気になって大家さんにも聞いてみたが、やっぱり向かいの家は小学生の男の子一人しかいないということだった。

 

 あの男の子は一体誰だったのかと思う。

 当事者でさえ見当がつかないんだから、誰かわかるはずがなかった。

 俺は今でも、その時の光景を思い出せるのだが・・・男の子が裸でソファーの周りを走り回っている姿が・・・。 


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