第三十三話 姑獲鳥
これは、とある冬の日のことだ。
稲藁を刈り取ったあとの香りと、ひんやりとした冷たさが鼻をくすぐる。空は朝からどんよりと暗い……きっと、明日の朝は一面の雪景色になっていることだろう。
夕暮れに、夜の帳が下りる。
この地域に住む皆は、路面の凍結を恐れ、夜もふける頃には出歩かない。……そんな静かな時に、それに出会った。
僕は、部活動が終わった後も自主練習として、近所をランニングする習慣があった。自宅そばの森林公園を一周し、コンビニでささやかなオヤツを買って帰宅する。
しかし、今日はすこし違った。
公園に、女がいたのだ。
女の格好は、この田舎にしてはすこし奇妙で、白い着物は下半身にいくに従い赤くまだらに染められ、帯は締めず、紐で少し上の位置に結んでいる。
訝しみながら、遠くから様子を窺っていると、なにやら、ぼそぼそとか細い声で囁いているようだった。
近づいてみると、女は妊婦である。
しかも、模様かと思っていた着物の赤は、血であった。
……あまり、美しいとは言えない女である。
ぽろぽろと、大粒の涙を流して彼女は産まれたばかりの赤子を抱いている。くしゃくしゃの、真っ赤な猿のような顔をした、泣かぬ赤子を抱きしめ、飴を、飴を、と乞う。
乳幼児に麦芽糖で出来た水飴を舐めさせて栄養を摂らせるのは、はるか昔の風習だと聞いたことがあるが……現代で、それはありえるのだろうか?
とても不気味に感じたが、放ってはおけなかった。
ちょうどいいタイミングで、ポケットの中にクラスの女子からもらった飴が入っていた。これなら、ミルク味だし、噛んで唾液を含ませれば赤ん坊でも大丈夫だろう。
「お困りですか?」
声をかけても、女はさめざめと泣き答えられないようだった。
仕方なく、ポケットの中から飴の包みを取り出し女へ差し出す。比較的、誰でも食べたことがあるような商品だと思っていたが、まるで見たことのないものを見た時の反応だ。
「お母さん、これは飴です。ミルク味の……口に入れて、噛んでいくと唾液を含んで柔らかくなります。それを、赤ちゃんに舐めさせてあげれば水飴の代わりになりますよ。」
しかし、女は静かに首を振るばかり。
それどころか、女は僕に向かって長い袖に包まれた腕の中で眠る赤ん坊を差し出そうとする。
女は身重だ。赤ん坊を抱くのも一苦労だろう。
そう思い、女の手から赤ん坊を受け取る。
しかし……赤ん坊は、本来の乳幼児としての体温ではない。ほんのりと冷たく、乾きかけの羊水と血に塗れ、何かを喉に詰まらせたような短い呼吸を繰り返している。
「お母さん、これは……?!」
顔を上げた時には、もう、あの身重の女はいなかった。
あとには、女の腰を汚していた血の跡と、白い……鳥にしては大きな羽が、落ちていた。
慌てて赤ん坊を抱えて家に帰り、ちょうど仕事が終わり家に着いたばかりの父に車を出してもらい、近所の産婦人科へ駆け込むと、赤ん坊は産んだ直後に放置されて、このままでは死んでしまうところだったらしい。
医者にこの赤ん坊の所在について、何度も聞かれたのだが、女のことは言えなかった。第一、信じてもらえるはずがない。身重の女が、赤ん坊を抱いて飴を欲しがっていたなんて。
「なあ、お前……その赤ん坊、鳥みたいな姿をした、血まみれの着物の妊婦から預かったろ。」
帰りの車の中で、父親が聞いた。赤ん坊を救い、安心しきっていたのだろう。僕は、医師に話せなかった、あの女のことも父に語って聞かせた。
「うん……その女の人が、あの子を抱いて飴を欲しがってたんだ。それで、ちょうどポケットに飴が入ってたから……」
「ほお……それは
あの医者は、最近都会から来たから、知らなかったのだろう。と父は言う。……その声はどこか懐かしげだ。
すれ違う車のヘッドライトに照らされ、まるで遠い昔を思い出すような、そんな目が、バックミラー越しに僕を見る。
……そういえば、僕だけ両親にはない特徴がある。
髪が、生まれつき明るかったり、身長も僕だけがとても高い。……更に、血液型も。両親の間から生まれるわけがないものである。母親は、子供の血液型は両親だけではなく祖父母の血液型の関係もあり、うちはどの血液型も生まれる確率はあるのだと言っていたが……。
「もしかして、僕も姑獲鳥から預かった子どもなの?」
ほんの、冗談のつもりだった。
しかし、父親は信号の赤に照らされ、じっと前を見つめたまま
「そうだ。俺は何も恥じることはないのだから、教えれば良いと言ったんだが……母さんは嫌がってな。今まで黙っていたんだ。……お前が家に来てから十六年か……きっとどこかで護っていてくれたんだなあ。」
と、告げた。
微かに降り始めた雪が、月明かりに照らされて輝く夜のことであった。
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