第二十八話 とある女の肖像、もしくは運命の恋人たち

 パリへ留学していた、二十五歳の頃。

郊外にひっそりと建つ、とあるアンティークショップで、一枚の絵画を見つけた。

 それは高価な額縁に収まった、小さな絵で、豊かな金色をした巻き毛の女性と、東洋人なのだろうか……白色人種とは少し肌色の違う、けれども色白な黒髪の女性が、共に色鮮やかな色打ち掛けを羽織る姿が描かれた裸婦画である。

 まるで二人の囁き声が聞こえてきそうな、その絵画から目を離すことができずに魅入られていると、店主は掃除の手を止め

「お兄さん、この絵を気に入ったのかい?」

と、にこやかに話しかけてくれた。

 それほどまでにこの絵を見つめていたのか、という気恥ずかしさを覚えながらも頷くと、店主は店の奥にある売り物のダイニングテーブルへ僕を招き、少しお喋りに付き合ってくれないか、と華やかなアンティークのティーセットでお茶を出してくれた。

 これは、その時の話である。



 かつて……パリには、クリスチャンの日本人女性が宣教師を偽った男たちに攫われ、多く輸入された時期があったらしい。

 用途は奴隷や娼婦など様々だったが、アジア人の薄い顔立ちは当時のヨーロッパの人々には人気がなく、大抵は女として売り物にはできず、安い値段で真面目に働いてくれる、労働力として扱われることが多かったようだ。

 しかし、そのうち何人かは娼婦として買われるものもおり、その中でひとりだけ……宮廷にも入れるほどの高級娼婦に成り上がったものもいた。

 彼女はサユリという名の、くっきりとした目鼻立ちの華やかな女性で、ヨーロッパ圏でもエキゾチックな雰囲気だと人気のある顔立ちであった。

 娼館の女主人は人気が出なければ小間使いとして使おうと軽い気持ちで女を買ったようだが、女はとても聡明で、フランス語での日常会話はすぐに覚え、舞踊や生け花など、日本独特の文化を披露する事ができた。

 女主人は彼女を大層気に入り、夜の世界の勉強のためにと、この娼館で一番の人気を誇る、ルイーズという娼婦について生活させることにしたそうだ。

ルイーズは豊かな金髪の巻き毛と、夜空のような青い瞳をした美女で、宮廷の淑女たちにも引けを取らないほどに品も良く……聡明であるが、同時に勝ち気でプライドの高い女性だった。サユリも最初のうちは苦労をしたらしいのだが、いつの間にかとても……姉妹のように仲が良くなっていった。

 言葉や文化の違いでサユリが困ったり、フランス人から差別を受けるような事があればルイーズが言葉巧みに追い返し、逆にルイーズが歯に衣着せぬ物言いで、周囲に敵を作りそうになった時には、サユリが間に入り場を丸く収める……。

 そう、そのサユリとルイーズが件の絵の女性たちだ。


 件の絵の作者は、宮廷に住む貴族から依頼を受けて、ルイーズの絵を描くように依頼を受けたらしいのだが、彼女らはそれとは別に報酬を支払い、小さくてもふたり一緒の絵を描いてほしいと依頼をした。

 当時、ジャポニズムを意識した絵画が流行していたため、彼はそれにならい、サユリの衣装として女主人が日本から輸入した、鮮やかな色打ち掛けをそれぞれの柔らかな肌の上に羽織らせ、キャンバスが華やかになるよう扇子を持たせて鞠を飾った。

 ふたりは絵に描かれている間も楽しそうに囁き合い、笑い合い、どれほど静かにポーズを保っているようにと言われても、わざとほんの少し指先を動かしてみせる。……最初は苛立ったそうだが、次第に画家自身も彼女たちに翻弄されることを楽しみ始め……ふと、二人の小指にそれぞれ金と黒の髪の毛が結ばれていることに気づいたらしい。

「お嬢さん方、その髪の毛は……ごみ、ではなさそうだ。何かのおまじないですか?」

 女というものは、まじないが好きな生き物である。……それは、いつの時代も変わらないらしく、若者の間で流行しているまじないだろう、と画家が聞くと、彼女たちは互いに顔を見合わせ、普段は夜の帷の中で生きる女だという事も忘れてしまうほど、まるで無垢な少女のように笑った。

 後に知ったらしいのだが、彼女たちの小指に結び付けられた髪は、当時娼婦の間で流行していたまじないで、思いを遂げたい相手と髪を交換して小指に結ぶ。そうしていると、その相手と離れることのできない……運命の恋人になれるのだそうだ。


「それで、ふたりはどうなったんですか?」

 店内に入った頃は、まだ昼過ぎだったはずなのに、今ではすっかり夜が更けてしまっている。

 話を聞く間、紅茶が無くなるたびに店主の妻はポットに紅茶のおかわりと、様々な焼き菓子を出してくれた。……大したものではないと言うが、その焼き菓子はとても美味しかったことも覚えている。

 ほのかにレモンの香りが鼻をくすぐるマドレーヌを齧りながら話の続きをねだると、店主はほんの少し言い淀んだ。……その様子で、次に彼が言う事はなんとなく予想がついてしまう。

「ふたりはね、死んだよ。ふたりの部屋で、仲良く首を吊ってね。」

 その絵の完成を待たずに、ルイーズは感染性の病気にかかり、その美しかった姿は衰えていってしまった。あっという間に、自慢だった美しいウエストを保つためのコルセットも締められなくなり、ハイヒールも履けなくなっていく。

 同室であったサユリも同時期に同じ病気にかかり、皮膚が爛れ、片方の目玉は腐り落ちてしまった。

 ルイーズはいつもの強気な態度はすっかり姿を消してしまい、サユリの美しい黒水晶のような瞳があった眼窩を見つめ、爛れた頬を撫で、ただしゃがれた声で涙を流して謝り続ける。サユリもそんなルイーズを責めることなく、自分の悲運を恨む事もなく、ただ静かに頷き受け入れるだけ。

……そして二人が病に臥してから、三ヶ月経った、ある晴れた日のこと。

 娼館で一番美しく、贅を凝らした部屋でふたりは仲良く首を吊って死んでいた。手を繋ぎ合い、二人の長い髪は、きつく絡み合うように結び付けられ解くことはできず、その上足元にはまるで貴族への手紙のように、赤い蝋で封を施した遺書も置いて。

 ふたりとも身寄りはなく、サユリに至っては異邦人だったのだが、彼女がクリスチャンだと知ると、女主人の説得もあり、教会はささやかな葬儀とサユリの遺体もルイーズと共に街の共同墓地に眠らせてくれることを許したらしい。


 これが、あの絵に描かれた女性たちの話だよ、と店主は言葉を締める。

 依頼主を亡くしてしまった絵は、完成を迎えると仕方なく、画家の元で長く眠り……アンティークショップを始めた子孫の手により、店に並べられ、こうして僕の目にとまった。

「サユリも、久しぶりの日本人に会えて嬉しいだろう。……長らくこの絵は手放せなかったけれども、君になら売っても良さそうだ。」

 店主はにっこりと目を細め、人の良さそうな笑顔を向けた。……なるほど、こうして商談にもっていくのが、彼の作戦なのだろう。

 しかし僕も、留学中ただ勉強や遊びに時間を使っていたわけではない。それなりに倹約をしながらアルバイトでお金を貯めてきた。……絵画は安くないのは知っているが、小さな絵だ。なんとかなるだろう。

「……で、おいくらですか?」

「これは、日の目を見なかっただけで本来なら美術館に所蔵される絵画だ。だから、そうだな……特別にサービスをしよう。二万ユーロでどうだい?」

 ……ふたりにはまだ、もう少し、このアンティークショップで過ごしていて貰わなくてはならないようだ。

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