第二十四話 心中あそび

 深夜、終電も近づく頃。

歓楽街のネオンを遠巻きに眺める余裕もなく、酒の匂いに心惹かれながら、残業明けでくたびれた身体を引きずるように駅のホームへと急ぐ。

 そこは酔っ払いと、今の自分と同じような労働に疲れ果てたものしかいない。まるで、世の中の汚いものを詰め合わせたような光景が広がっていて、いつも見る顔もあれば、知らない顔もある。

 ……しかし、今日はその中に異質なものがあった。

ホームの黄色い線の内側に若い、恋人と思われる男女がいたのだ。……いや、若いのは女の方で、男は二十代から三十代ほどのように見える。対する女はまだ十代半ばほどだろうか?このくたびれた大人たちに紛れるには幼い少女だ。

 一張羅なのだろう。彼女はおろしたてのような、繊細なレースに彩られた一点のシミも見つからない白いワンピースを身につけ、綺麗に髪を整え化粧をしている。

 ふたりはとても仲睦まじく、指を絡ませては肩を寄せ合う姿は平時であれば微笑ましく思えるのだろうが、長い労働を終えた今の自分達からすれば、目障りなことこの上ない。

 大方、少女が寂しい男を相手に、金と引き換えに自分の体を売り飛ばしているところなのだろう。……早くどこかしらのホテルにでも入れば良いのに、どうして今の時間、こんな場所にいるのだろうか?


 ふと、二人は抱き合った。

周囲の視線も気にすることなく……いや、気にしている余裕すらも、今の疲弊し憔悴している自分達にはないのだが、恋人たちは甘く睦み合う。

 男の大きな手、骨張った指は少女の腰や背中、首筋……艶やかで豊かな髪と小さな頭をまさぐるように撫で回し、抱き寄せ、柔らかな薄い肉感を確かめる。

 少女もまた、しっかりと薄い胸元や細い脚を押しつけるようにして、まるで互いの体を溶かし合うような抱擁を続け、そのうちにすっかり二人の世界に入ってしまったのだろう、情熱的に互いの唇を塞ぎはじめた。

 そばでぼんやりと眺めている自分の耳にも、艶かしいナメクジが絡みつくような音と、熱にうなされたような甘い吐息が聞こえてきそうなほどに、二人はただ無心に……頬に熱を落として、呼吸をするのも惜しむかのように、薄布越しの肌を寄せ合い口付け合う。

 ……ああ、きっと二人は疲れ切った自分達とは違い、これから素敵な場所へと向かうのだろう。うらやましいな、早くどこかへ行ってくれないだろうか。

 電車が到着し、煌々と光るライトが二人を照らす。

その瞬間、恋人たちはきつく体を抱き合いながら、電車に向かい飛んだ。


 思わず、あっ!と叫んで二人へ手を伸ばそうとする。

 少女と、目があった。

榛色の艶やかな丸い木の実のような瞳がじっと、こちらを見つめている。白い肌に紅をさしたように恍惚と頰を染めて、薄く開いた唇は唾液で潤んだ艶を帯びている。

覗く舌は、赤く、濡れて、別の生き物のようだ。

ひるがえる、ワンピースの裾から伸びる、細く白い太腿。

豊かな黒髪が揺れて絡まり、視線を遮る。

こんなに美しい少女と死ねるなんて。

なんで、俺ではないのだろう。

 そんな事を思ってしまった。

……思っているうちに、恋人たちは肉片となる。

心中だ。


 その場にいたものは、急いで駅員と救急車を呼んだ。

 どうせ助からない、無駄だとは思っていたが。……しかし、死んでしまったのは男の方だけで、少女は奇跡的に無傷で生き残ったという知らせが入った。

 礼をしたいという呼び出しに応えて仕事を抜け出し、少女が入院しているという病院へと向かう。迎えてくれた少女の母親から、何気ない世間話を交えながら話を聞くと、どうやら少女は十四歳。男は学校の担任らしい。

 どうしてこんな事になってしまったのだという問いかけにも、母親は分からないと言葉を濁すばかりであったが、話をしていくうちに昨年の、ある時を境に少女は男を誘い恋をして、心中をしようとするようになった……と、教えてくれた。

 くれぐれも、たぶらかされないように、と母親は耳打ちする。

 対する少女は、白いパジャマ姿でにっこりと笑っていた。

「お兄さん、私を助けてくれてありがとう。」

 あれほど情熱的な口づけを交わした男が目の前で挽肉になったにも関わらず、少女はとても穏やかな様子で礼を言う。

 席を立つ母親に再度、気をつけてくださいね、と念を押されてしまったが、この少女のどこに気をつける必要があるのだろう?

 男と心中しなくてはならないほどに、何らかの事情で追い詰められた、とてもかわいそうな少女なのだから……労ってやるのが大人の務めではないのか?

 二人きりになると少女はベッドを軋ませて立ち上がり、艶やかな丸い瞳でじっと、蕩けるように見つめ……細い、華奢な四肢が俺の体へ押し付けられる。

 薄い衣服越しに細い指が体を撫で、その低い体温すらも感じ取れてしまいそうなほどに互いの体を密着させる。

 濃密な空気に心臓が、大きく脈を打ち……ちらちらと、赤く濡れた小さな舌が蠢き言葉を紡ぐ。

「私ね、死にたいの。死んで、みんなの元へ行きたい……けれども、私には呪いがかかっているの。私を置いて死んだ彼が……僕の分まで生きて、って……だから私、どう頑張っても死ぬことはできないのよ。どれほど綺麗な死装束を着ても、どれほど恋をして一緒に死んでくれる人が現れても、私だけが生き残る。……残酷だわ。」

 彼とは一体。……最初の心中相手なのだろうか?

ああ、“彼”が憎い。憎い。憎い。彼女に呪いをかけて、苦しめている、ずっと彼女の心を縛るお前が憎い。

 彼女は気づいているのだろうか?いくら恋をしてもそれは、その男を愛しているわけではないのだ。男の中に“彼”の面影を見ているに過ぎない。いつまでも、いつまでも、いつまでも。彼女は永遠に“彼”に恋をし続ける。

 ああ、憎い。どうしようもなく憎い。

彼女は、俺のどこに“彼”を見たのだろうか?

 俺は、あの一瞬……迫り来る電車に男と身を投げた瞬間から、彼女に恋をしていたのだ。触れられて、言葉を交わして……自覚してしまった想いは止まらない。

「お兄さん、私と一緒に死んでくれる?お兄さんも、とても疲れているように見えるもの。……私と死んでくれるでしょ?」

 猫のように、甘えた声で問いかける少女に、俺は頷いた。

 きっと、あの男も……その前の、その前の男も、きっと俺と同じだったのだろう。“彼”には果たせなかった……彼女と一緒に死ねる、唯一の男になりたかったんだ。

 そして、あの時のように呼吸をするのも忘れてしまうほど、俺たちは無心に口付けを交わした。


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