第二十二話 五線譜と夢


  つまらない午後四時、放課後。

 少女はいつもひとりだった。

 家に帰っても、彼女を一流のピアニストにするためだけに生きているような母親に、欲しがってもいない、ただ買い与えられただけの高級ピアノに体をくくりつけられるだけだ。……もちろん、幼少期から友達も作らせてもらえず、ただ学校は義務教育と高卒の資格を取るためだけに行く場所でしかない。

 少女はピアノなんて大嫌いだった。


 そんなある日のことだ。少女は学校で行われる合唱コンクールの伴奏係に選ばれてしまった。

 家で練習しようものなら、母親がヒステリーを起こしながら、あなたの手はこんな下らないものを弾くために存在していないのよ!と叫ぶに違いない。きっと、学校にも迷惑をかけてしまうことだろう。

 仕方なく、少女は教師に許可をもらい学校で練習させてもらうことにした。どれにしろ練習時間は減ってしまうのだから、酷く責められるだろうが、こちらの方が幾分かマシだろう。

 椅子に座って、ピアノの鍵盤に指を乗せる。与えられた譜面は少女にとってはとても簡単なもので、目で音符をなぞりながらその通りに白と黒の木片を弾いて音を出す。

 ……この分では、ある程度流れをさらってしまえば、特に問題はないだろう。少女がそう判断してもう一度、最初から譜面を確かめようとした時だ。

 不意に、ぽろん、と高い音が鳴った。

 辺りを見渡しても、ここには少女しかいない。

 ……そういえば、クラスメイトが言っていた。音楽室に出るというピアノを弾く幽霊の存在を。それは人が近づかなくなる放課後に現れ、素晴らしいピアノを弾いては人々を魅了する。……けれども最後まで弾けることはなく、何度も……何度も狂ったように同じ場所を繰り返すのだ。

 恐る恐る椅子から体を退かすと、柔らかなビロードの椅子が窪み、そこに姿の見えない誰かが座る。

じっ、と見守っていると、触れてもいないのに鍵盤が沈み音を奏で始めた。その音に合わせてだんだんと、光が透けてしまうような幻のような体の…少女と同じ年頃の少年が姿を見せた。少し鬱陶しそうな黒髪に、下向きの長いまつ毛を伏せた、色白で……少し華奢な少年。

 ぎょっとして、あっ、と小さく声を上げてしまうと、少年の姿をした幽霊も驚いて鍵盤を触る手を止める。

「どうして。僕が見えるの?」

 優しい声で、幽霊は少女へ問いかける。……音楽室の幽霊は少年だったのだ。少年は、ぽろん、ぽろんと鍵盤を指で押しながら、嬉しいような寂しいような、そんな不思議な顔をして

「よかった、僕の姿が見えたのは君が初めてだよ。」

 と、ほんの少し熱っぽい声色で少女へ告げる。人に……いや、正確には人ではないのだが、これほどまでに優しく声をかけられたのは生まれて初めてかもしれない。自然と頬が赤く染まり、熱を帯びていくのを感じる。

 そして言葉を返すことができないまま戸惑う少女を、少年の幽霊はじっ、と見つめ、力強く懇願しはじめた。彼が触れることができる体ならば、少女の肩をその大きな手で掴み、揺さぶっていることだろう。

「これも…何かの縁だと思うんだ。君の体を貸してほしい。さっきの演奏を聴いていたよ。君の体なら、きっと……きっと、あの曲を弾けるはずだ。」

 初めて、異性に声をかけられ……そして頼まれごとをする日が来るとは。少女の戸惑いからの無言を了承と受け取ったのか、それともそれすらも了承ととらなければいけないほど、彼は追い詰められていたのか……少女は窺い知ることはできなかったが、少年は触れることの出来ない体で、少女の体を抱きとめた。

 ふと、体の中に何かが入っていく心地よさ……水が流れおちるように背筋がぞくぞくとするような、不快感と背中合わせの快感を感じた。思考が、恍惚として溶けていく。

 はじめて感じる感覚に身を任せていくうちに、少女の指は糸で操られているかのように軽やかに鍵盤を弾き、色鮮やかな音楽を奏でていく。

 技術は確かに少女の方が優れている。……けれども……それでも、彼女はこんなに花が咲き乱れるような、繊細で、さまざまな色に満ち溢れた音を奏でる事が出来ない。

 だんだんと、少女は彼が憎らしく思えてきた。

 そして、最後のフレーズ。

 あれほど彼が弾きたがっていた場所。

 言葉を交わすことがなくとも、意識を共にしているからか、その強い思いは少女へ伝わっていく。

 しかし、そこへ到達する前に、少女は彼を拒絶した。

 少女の意識の外へ追い出されてしまった幽霊は、呆然と少女の背中を見つめる。どうして?願いを叶えてくれないのか、と言いたげな、そんな少女を追い詰めるような視線。

「ねえ。私の体を借りれば、あなたは理想を叶える事ができる。……でも、それはあなたの力なの?違うでしょ?あなたはそれで満足なの?……私は悔しい。あなたほどの才能があるのに、私じゃあなたには敵わないのに。」

 幽霊は、何もいうことはなかった。

 少女にとって、はじめて自分の感情を口にした瞬間であった。次々と、蛇口を捻ったかのように溢れ出す言葉は止まらない。

「私は、あなたのように人を感動させるものは弾けない……どれほど早く指が動いても、そんなもの……何の意味もない。」

 幽霊の沈黙が苦しかった。

 少女は逃げ出すように音楽室を出ると、そのまま帰り支度をして学校を後にしてしまった。

 ……その日以降、幽霊の音色は聴こえることはない。



 それから十五年の月日が経った。

 少女は立派な女性となり、音大への進学を機に母親とも距離を置き、あれほど好きではなかったピアノも、彼女なりに愛することができるようになった。

 そして彼女は今、一流のピアニストとしてウィーンで活動するほどまでに成長した。

 この日は全世界の子どもたちを集めたコンクールの審査員の仕事がある。彼女は劇場の客席へ座り、資料へ目を落としながら淡々と採点をしていく。……あの日以降、あれほどまでに心を揺り動かすピアノの音色に出会えていない。幽霊はきっともう、自分に失望して姿を消してしまったのだろう。

そんな昔のことを考えてしまうほどに、この仕事は彼女にとって退屈であった。

 ……次の候補者は……どうやら、日本から来たようだ。

 じっと、耳を澄ます。

 静かに奏で始めるあの曲は、あの時幽霊の奏でた曲。そして色鮮やかな花が咲き乱れるような繊細な音色は紛れもない、忘れることの出来ない、彼の音色だ。

 かつて少女であった女は、はっ、と顔を上げる。そこには、あの頃の幽霊がいた。

 光が透けるような姿ではない。実体を伴ってそこにいる。

 そして彼は、あれほど弾きたかった最後のフレーズも弾き終えると、女へ視線を合わせ、懐かしむような……少し恥ずかしそうな顔で笑った。

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