第二十一話 河童の嫁御


 新緑が色鮮やかな季節。

 僕は妻の実家がある岩手へ訪れていた。

妻は最初の子を身籠り、慣れないことを不安に思っていたようであったし、僕も仕事で家を空けることも多かったこともあり、何かあっては危険だと義理の両親の勧めもあり、地元での出産を決めたからである。

 お腹もふくらんだ安定期に入ってから、妻はひとり実家へ戻り数ヶ月……離れて暮らす不安もあったが、仕事が早く終わった晩にはビデオ通話で顔を見て話していた事もあり、距離は感じる事はあってもお互いあまり寂しさを感じることはなかった。

 しかし、とうとう今朝陣痛が始まったと連絡をもらい、急遽仕事を休み東京から仙台へ、仙台から盛岡へ新幹線を乗り継ぎ、その後三十分ほど電車に揺られる。

 長旅の末、目的の街へ辿り着くと、義理の家族は暖かく出迎えてくれ、駅から病院まで車も出してくれたが、どうやら妻は立ち会いでの出産を希望していないらしい。出産の間際はひどく気がたつ者もいると医師から説明を受け、せっかくやってきたのにと不満はあったが、出産時のひどく荒れた姿を愛する男に見られたくない女心なのだろう、という義母の説得もあり院内には義母と義妹が残り、僕と義父は仕方なく妻の実家へ戻ることにした。


 広い田んぼの中にぽつり、ぽつりと民家が建つような場所を、義父の運転する軽自動車が走る。……彼もそうだが、田舎の人間はよく車のスピードを上げる。ここは高速道路なのだろうかと勘違いしてしまうほどだ。

 妻の実家は建物自体も広く、庭もあり、裏には山もある。そして、家と山の間には小川があった。覗き込むとちらちらと、小さな影が動く。どうやら魚がいるらしい。

 家にいても落ち着かないだろうから、と義父は釣りでもしてくるよう勧め、いかにも年代ものの古びた釣竿とバケツを貸してくれたが、今まで釣りの一つもしたことのない人間が天然の魚など釣れるわけがない。

 ミミズや疑似餌ではなくても、その辺の鮮やかな草を括り付ければ魚は食い付くという言葉を信じ、何度も釣り糸を放り投げては待つ。待てども場所を変えても全く手応えを感じない。

やっぱり無理か、と諦め、病院からの連絡を待とうと決めた時だ。

 「おじさん、だめだよそれじゃあ」

大人の女性の声がした。

 振り返ると、そこには僕と同じ年頃の女性がいた。

姿も、声も成人した女性なのだが、化粧っけがなく服装も幼い子供のような組み合わせで、髪をウサギのヘアゴムで結っている。

おかしな女だ。自分のことを子供だと思っているのだろうか?

 「初めてだからね。釣れなくても仕方ない」

 変に事を荒立てたくない一心で、当たり障りのない……けれどもお互いの間に壁を隔てた返事をする。しかし女は首を振り、僕が止める間も無くカラフルな色合いのスニーカーと靴下を脱ぎ、ずんずんと川の中へ入って行ってしまった。

 「ちがうよ、釣るのが間違いなの。ここの魚はね、こうして……川の中に入って、捕まえるの。」

言いながら、まるで宝探しをするように川の中を漁る女。その手にはあっという間にまるまると太ったニジマスが握られていた。

 僕がバケツを構えると、彼女は手際よく魚を捕まえてはバケツの中に放り込んでいく。

 「すごい……大漁だ。」

家族分に足りる量をあっという間にバケツに収めていく様を呆然と眺める僕に、女は得意げに笑い

「すごいでしょ?」

と、言う。服装のみならず、彼女は変に幼い物言いをする。

 あまり捕りすぎてはいけないから、と僕たちはニジマス漁を止めて陸上へ戻る。タオルの代わりにハンカチを差し出すと、女は屈託なく笑って首を振った。

「おじさん、都会から来たの?言葉が全然訛ってない。」

「ああ、東京から。妻がここの家の出身なんだ……子どもが産まれるから、今日急いで来た。」

 僕の言葉に、女はハッとする。一瞬だけ大きく目を見開き、息を飲み、そしてすぐに諦めたようにその目を伏せてしまう。

自分の手を、脚を、顔を、胸を、必死に撫で、まるで存在を確かめるように触れながら

「ああ……もうそんなに時間が経っちゃったんだね。」

と、泣きそうな声で呟くばかり。

 何か、女を傷つける事を言っただろうか?知らないだけで、言ってはいけない事を言ってしまったのでは……?

 しどろもどろになる僕を見て、女は少し悩ましげに首を傾げ、寂しそうに笑った。

その顔は、先ほどまでの子どものような表情ではない……大人の、姿から察することのできる年齢相応のものだ。

「あの子、お母さんになるのね?ずいぶん泣き虫だったのに大丈夫かしら……まあいいわ、あなた……子どもを川にやってはだめよ、絶対に。この家の子どもはね、昔から河童のお気に入りになりやすいの。川に入れたら最後、河童に攫われて……こうして、たまにしか戻ってこれなくなってしまうわ。」

話す言葉も、大人の女性のそれに変わってしまった。

一瞬だけ目を逸らした隙に服装も、子供らしさのないシンプルな大人の着るワンピースへ変わっている。

一体どういうことだ、と理解が追いつかないままでいる僕に女はただ、悲しそうに……寂しそうに笑っては長い髪を風に揺らしている。……不思議と、その姿は妻によく似ているように感じた。

 そして、その細い脚には赤黒い……力強く掴まれなければ付かないような、濃い痛々しい痣が、全体的にくっきりと残っている。

 それは?と、尋ねようと口を開いたときにはもう、女は音もなく姿を消し、後には川のせせらぎと、家族が満足に食べられる量の魚が入ったバケツのみが残されていた。


 それからすぐに妻は難産の末、元気な女の子を出産した。

 ひどく疲弊したようで、その日は会うことが叶わなかったが、次の日病院に向かうと今までの妻と同じ笑顔で迎えてくれた。……それは出産を終え疲れていた事もあってか、寂しげに笑うあの女の面影と重なって見える。

 その後、僕は東京に戻らなくてはならなくなったが、数ヶ月後、子どもを連れた妻を迎えに岩手へ向かった際に、義理の両親と妻に、あの日川で出会った不思議な女性の話をした。

 ウサギのヘアゴムを付けた、脚におかしな痣のある、変に幼い服装をした……川で魚を手掴みするのがとても上手な女。彼女はこの一族が河童のお気に入りになりやすく、川へ入ると攫われてしまうと言っていた。

 僕の話を聞いた皆の顔はひどく青ざめ、義母は一冊の古びたアルバムを持ってみせてくれた。

そこに保存された一枚の写真……ウサギのヘアゴムを付けた、あの女と同じ服装をした……けれども、姿は十歳に満たないほどの幼い女の子が屈託のない笑顔を見せて映っている。

 妻とは一つしか歳の変わらない姉であるこの女の子は、どうやら、あの川で言いつけを破り、家族のためにひとりで魚を捕りに出かけてから戻ってきていないらしい。みなは必死になって探したが、服の切れ端、骨の一片も見つかっていない。

 そして、この地域にだけ伝わる怪談話によると、河童に魅入られた子どもは永らく河童の子どもとして過ごすらしい。そして何らかの事情により時の経過や自分の体の成長を自覚してしまったときは……その時は、河童のつがいとなり、女はその子どもを身籠もり、男は河童に子を産ませるようになる。

 おそらく、自分の妹が結婚し母親となる事を聞かされた時が、彼女の子どもから河童のつがいとなる、大人への変化の時だったのだろう。


 盛岡駅へ向かう電車の中、ふと窓の外を眺めると濃い緑の影を落とす木々の中に、ほんの小さな川があった。

そこを歩く、妻によく似たひとりの女。

それはこちらを見て寂しそうに笑い大きく手を振る。

その腹は、とても大きく膨らんでいた。

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