第十七話 紫煙に揺蕩う


ある日、恋人が死んだ。

うららかな春の日のことだった。

ガードレールを飛び越え、崖の下へ真っ逆さま。顔のかたちも残らないほどのひどい事故死だった。


彼女の死を受け入れられずに出会った場所、はじめてデートしたファミレス、いくつかの足跡を辿り、思い出を巡った。そして最後に向かったらしい歓楽街には、海外のものだろうか?見慣れない煙草の吸い殻が落ちているのが目につく。

……ふと、路地裏から女に腕を引かれた。濃厚で甘ったるい香りが鼻をくすぐる。長い髪、肋骨が浮き出るほどに痩せた胸、陸上でもしていたのだろうか……細く筋肉質な脚。それを引き立てるかのような、細身の体に張り付くワンピース。高い身長を更にかさ増しする折れそうなほどに細く高いピンヒール。……ここで働いている女だろうか。とても派手な姿である。

「お兄さん、この街でそんな風にふらふら歩いてちゃダメだ、カモになるよ。」

男の声で喋った。……なんだ、男か。

「そこのね、ゲイバーで店子してんの。お兄さん……そこの煙草に興味持ってたみたいだけど……あたしが売ってるもんに、興味あるのかい?」

男は赤い唇をにんまりと歪ませると、スパンコールのクラッチバッグから高級ブランドのシルクスカーフの包みを取り出して開いて見せる。……その中には、無造作に黒い紙で巻かれた甘い香りのする煙草が入っていた。

「ドラッグか?」

道に落ちていた煙草の吸い殻と同じだ。……不審に思い尋ねると、男は大きな声で可笑しそうに笑った。

「あはは、やだなあ……そんなんじゃないよ。むしろドラッグとは逆の代物。いいかい?これは魔法さ。反魂香の応用らしいんだけどさ、これに火をつけて吸う……すると煙の中に死んでしまったけど会いたくて仕方のない人が現れる。反魂香と違うのは、煙を吸っている人にとっては、それが幻じゃなくて現実のもののように感じることが出来るんだ。」

にわかには信じ難いが、死んだ人に会えるというのは……今の僕にとっては神の救いとも呼べる効能である。

手を伸ばして一本だけ手に取ると、男は、吸ってごらんよ、と手慣れた様子で火をつけてくれた。フィルターを口に咥え、甘ったるいジャムのような熟れきった果実の香りと白檀の匂いの煙を肺いっぱいに吸い込む。初めての煙を肺に取り込む行為に体が堪えきれずにむせてしまうと、男は背中を摩り

「ああ、初めての煙草だったのか。……ほら、ゆっくり吸うんだ。魔法にかかるには呼吸も大切だよ。ゆっくり……ゆっくり……吐いて、深く吐いて……」

と、優しく声をかけてくれる。僕はそれに合わせて、煙を吸って……吐いて、と繰り返していくうちに次第に心が穏やかに、静かに凪いでいくのを感じた。

次の瞬間、吐いた煙の中から……彼女が姿を見せた。

あの時と同じ大きな口で笑い、えくぼも、目尻の笑い皺も何もかも生きていた頃と同じ。……手を伸ばすと、体温は感じられないものの産毛の感触も肉の柔らかさも感じられた。

その一つ一つに懐かしさを覚え、月日が経っていても僕の中に、愛情が残っていたのだと確信する。

「一つ忠告するよ、これは吸いすぎてはいけない。自分の命も縮めてしまうし、死んでもあの世に行けずに幻に見た魂といっしょにこの世に縛り付けてしまうから、お互いにとって良くない。」

男はこんな忠告を残すと、手持ちの煙草を全て持たせてくれ、これも人助けの一環なのだと、一円のお金も取らずにヒールの甲高い音を鳴らしながら夜の街へと消えていった。


それから僕は、男の忠告を無視して毎日、浴びるように煙草を吸った。そしてあらゆる彼女の姿を想像して眠る。

そして数日で、容易く命を落とした。

病気でもない、事故でもなんでもない、突発的で不審な死なのだろう。

全ては計算通りだ。



ある日共通の友人からある事を聞いた。

彼女は、結婚を決めた男がいる。……それは、僕ではない。

僕と付き合いながら、彼女は一年前にある男と知り合い激しい恋をしていた。その男はとても熱烈に愛情を表現し、僕から彼女を奪い取ろうと燃えていたようで、彼女もあっさりそちらに心が靡いてしまったらしい。

彼女が事故死した時もその男と一緒にいて、高速沿いのホテルから帰るところだった。

僕はずっと思い出の場所を辿り、そのひとつひとつで記憶の中の彼女を殺しながら、復讐の手立てがなくなってしまったことを悔やんでいた。

しかし、思いもよらぬ機会が与えられた。

死ぬまでの間、彼女が奴隷同然のような姿で地に這いつくばり、みっともなく、汚らしい、売女のような姿を想像したのはとても愉快だった。その頰を殴り、体を蹴り、何をされているのか分かっていない、馬鹿な女の姿がこんなに、こんなに愉快な物だったとは。

命を落としてから、煙草の効果でこの世とあの世の狭間に取り残されてしまった彼女にようやく会うことができた。

恨めしそうに睨みつけながら、彼女は僕に問いかける。

「どうしてあれを吸ってしまったの」

「……お前に、逢うためだよ。お前に復讐するためさ。あの男に会えなくて寂しいか?苦しいか?……安心しろ、もう二度と合わせない。裏切り者が。何回でも殺してやる。」

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