第十六話 吸血鬼に憧れた男


僕は昔から……そう、物心ついた頃から、爪を長く……鋭く整える習慣があった。

理由は様々だ。ヤスリをかけて形を整え、鋭く……丁寧に艶を出し磨く、その一連の作業に儀式のような神秘性を感じるのもそうだが、缶コーヒーが開けやすい、手紙の封を切りやすい……と、生活面において、これほどまでに便利なものはない。

子供の頃は、長い爪は女のものとされ咎められることもあり、体育教師に羽交締めにされ、生徒指導の教師に無理矢理切られる事もしょっちゅうだった。しかし、今の時代……男女の性差がなくなり、マイノリティーへの理解を求められるようになると、男が爪を長く伸ばしていても、お洒落だ、ジェンダーレスだと持て囃され、周囲も差別主義者のレッテルを貼られる事を恐れて、咎めることすらもタブーのようになってきているように感じる。


もちろん、生活面での利便性を求めるだけなら、爪を長く整えることはデメリットの方が大きいだろう。どうしてそこまでして長い爪にこだわるのか……それは、僕が幼い頃から吸血鬼という存在に強い憧れを抱いていたからだ。

はじめは十歳の頃に読んだ児童文学に置き換えられたドラキュラ伯爵の物語だった。そこに描かれた夜の世界を生きる、耽美で妖艶なひとりの男の不気味な物語に、僕はひどく引き込まれ、いつしかその世界の住人になりたいと強く思っていた。

古今東西、ありとあらゆる吸血鬼の物語を読み、歯医者へ行っては犬歯を鋭く加工してほしいと頼んだが、現実はなかなかうまく行かない。

そして考えた末、爪を加工する事を覚えた。爪ならば、美しく飾り立てることが出来るし、女性の肌を傷つけ血を舐める……という、背徳的な行為を耽美に演出することが出来るだろう。


この日も僕は、長い爪の手入れをしていた。

丁寧に整えて長さを出した爪に、下地と赤い色のジェルを塗って、ほんのりと青いライトを当てて硬化する。そして、その上から透明のジェルを厚く……何度も塗り重ね、まるで水をたっぷりと蓄えたゼリーのような艶と、素の爪では到底得ることのできない硬さを手に入れると、更にヤスリをかけて鋭く……ナイフのように加工する。

試しに、ポケットに入れたままのレシートに爪をかけ、破ってみることにした。ぴりっ、と軽い音を立てていとも簡単に薄い紙は真っ二つに切り裂かれる。

これほどまでに美しく仕上がるとは。……プロに任せたのなら、技術をもって、これ以上の艶や硬さが得られるのだろうが、彼らはここまで鋭く加工はしないだろう。……やはり、僕自身が腕を磨かなくてはいけないようだ。


ふと、ベルの音が響く。……いけない、今日は恋人が家に泊まる日だったのだ。

彼女は就職してしばらく経った二十七の時に友人の紹介で出会い、付き合い始めた、目を見張るほど美しいとは言えないが、とても愛嬌のある女だ。……もう、付き合って五年になる。

出迎えると、彼女は塗ったばかりの爪に気づきどうして赤なのかと不思議そうだったが、

「よく見て、君のよく付けている口紅と同じ色だよ。……口紅はさすがに塗れないけど、爪なら同じ色が付けられるでしょ」

と答えると、嬉しそうに笑った。吸血鬼の伴侶は美しい……絶世の美女だと相場が決まっている。しかし彼女はなかなか……吸血鬼の伴侶と呼ぶには些か人が良すぎる笑顔を見せる。なぜか、僕はこの笑顔には敵わないのだ。

それから一緒に映画を見て、デリバリーの食事をとり、入浴して一緒にベッドへ入り、眠る前にひと時の愛情の交換をする。

経験上、この時が一番女という生き物は無防備になるのだ。

彼女の細い首、その青く透ける血管へ、鋭く整えた爪の先を押し当てる。ぷつっ、と薄い膜が破れる感触が指へ伝わり、ぷっくりと丸い、赤い血の玉が浮き出る。

肌を傷つけられている事にも気づかずに彼女が身を捩ると、それはすぐに壊れ、太い筋にそって鎖骨から、胸元へと流れ落ちてしまう。その前にと小さな小さな傷に唇を押し当て、口づけをしているふりをしてその血を味わう。

……やはり、彼女はとても甘美な味がする。

物語では、純潔な乙女の血でなければ美味しく飲めないはずなのだが、いつまでも、何回味わっても彼女の血液は変わることなく甘く、香りもよい。今まで何人かの女性の血を舐めてきたが、これほどまでに味の良い人はいないだろう。


僕はただの人間だ。

彼女に永遠の美しさも、命も与えてやることすらできない。

けれども彼女の血を味わってしまった今、他の女の血を舐めることなど考えられない。……ほかの、それこそ本物の吸血鬼に彼女の血を与えることなどもってのほかだ。

これは愛なのだろうか、それとも執着?

わからないけれど……彼女と出会ってからの僕は、とても普通の状態ではない。だからだろうか。こんな言葉が口をついて出てしまうのは。


「結婚しようか。」

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