第九話 菊蘭
中国、雲南省。
ミャンマーへ程近く、山々に囲まれた土地で、人々は農業や酪農をしながら穏やかに暮らす……私はそこの小さな村の出身だ。村はとても貧しかったが、両親はとても教育に熱心で、家族の大変な努力のおかげもあり、私は二十歳の頃、憧れていた日本の大学へ留学することが出来た。
これは、そこで出会った友人の話である。
彼とは同じ講義を受けたことがきっかけで知り合い、交流を重ね、次第に親友となった。
大学を卒業した後は故郷へ戻り、直接会う事もなくなったが、その間もオンラインゲームを通じての交流は続き、五年ほど経ったある日……彼は私に会いに中国へ旅行に行くと言い、久しぶりの再会を果たした。五年ぶりに会う彼は元気そうで、今の仕事を尋ねると女性用の靴を作る職人をしているのだと楽しげに教えてくれた。……なるほど、前々からセンスが良く女性を美しく飾り立てる事に興味があった男であるから、きっと素晴らしい職人になるだろう。
私たちは二日ほど北京に滞在し、事前に調べていた観光地や評判の店を回っていたが、不意に彼は私の故郷へ行ってみたいと言い出した。大学時代、私が話していた豊かな自然と温かな人々に会ってみたいのだそうだ。旅行の日程には余裕があったので、快諾した後ホテルをキャンセルして急遽自宅へ向かう。
その列車の中、私は彼にひとつの怪談話を語って聞かせた。
私の故郷の村には、纏足の女の幽霊が出る。
彼女は村の出身で、とある王の妾であったのだが、あまりの美貌を妃に恨まれ、無実の罪を課せられ殺されてしまった。村人は彼女を匿い必死で守ったそうだが叶わず、彼女は死ぬ間際、せめてもの御礼にと舞を踊ったそうだ。
それからというもの、彼女は夜になると村中を舞い踊り、それを見たものには幸運が訪れるらしい。
もちろん、私も見たことがない全くの噂である。彼も笑って、そんな美人なら会ってみたいな、と返し、二人で彼女はどんな姿なのだろうと想像を巡らせた。
実家へ戻ると、家族はみな彼を受け入れてくれ、家畜の豚を捌いて特別なごちそうを振る舞ってくれた。彼は私にしたように、兄弟や両親、祖父母にも優しく接してくれ、家族もまた彼をとても気に入ったようだった。
深夜……一時過ぎだろうか。彼が私を起こし、散歩に出たいと申し出た。もちろん断ったが、彼は一人でも行くと聞かないので仕方なく、野犬から身を守る棍棒代わりの杖を手に彼の散歩に同行した。自然の中から職人として様々なものを吸収しているのだろう、黙ったまま私たちは長閑な田園風景の中を歩く。
その時だ。私たちは女の幽霊を見た。
柔らかな衣擦れの音がして金の飾りが、しゃらん、しゃらんと涼しい音を奏でる。
纏足の脚だ。小さく、まるで四つ足の動物の蹄のような、豪奢な靴にみっちりと折り曲げられ捻じ込まれた足。その下には痛々しく、血や膿で汚れた包帯が巻かれている。
薄い薄い……肌が透けるほどに薄い絹を幾重にも重ね、煌びやかな刺繍を施した漢服はまるで蝶のように翻り、花の香りと共に冷たい風を運ぶ。
凛とした眼差しとほっそりとした身体、華やかな服装に負けないほどの美貌……なるほど、これは傾国の美人という言葉がぴったりなほどの美しさである。
私はほう、とため息をついて見惚れていたが、彼は違った。
呼吸を荒げ興奮した様子で舞い踊る幽霊の元へ駆け出し、身を屈めてその脚に飛びかかる。しかし相手は幽霊だ。あっさりとその姿を霞のように消してしまった。
地に転げても尚、幽霊を捕まえようと手で宙を掻く彼を必死で取り押さえながら、見た事のない興奮ぶりに驚いていると
「あれほど、美しい足は見たことがない……あの足に合う靴が作りたい。あの足を、自分のものにしたい……」
と、うわ言のように呟く。しかし、纏足の文化など現代には消滅している。次第に落ち着きを取り戻していく彼に、纏足は何も分からない赤ん坊の時から足の骨を折り曲げ、痛いと泣いても構う事なく毎日のように布で固定して作る残虐なものだ。感染症で死ぬ事もあるし、纏足の女達は満足に歩くことが出来ないのだと、その幻想を砕くように言い聞かせ、その時は彼も納得してくれたかのように思えた。
その後も私達は幽霊について話すことはなく、どことなく気まずい雰囲気のまま、予定通り彼は日本に帰国した。
さて、纏足の幽霊を見た私に幸運が訪れたのかを知りたい者もいるだろう。……噂通り、私の元には幸運が訪れた。
なんと、北京から療養に来ていた大企業の娘に見染められて、嫁にもらう事ができたのだ。彼女もこちらでの生活を気に入ったようで、両親から多額の仕送りを受けながら家族で農家を続け、貧しい生活は一変し豊かで幸せに暮らしている。
彼も、日本へ戻った後に職人として大成し結婚をしたようだ。
相手はとても足の小さな女性で、彼女の靴を仕立てた事がきっかけで知り合ったらしく、すぐに可愛い娘も生まれたと写真を送って見せてくれた。
子どもを産み落とすという一仕事を終えた、少女のように小柄で幼い雰囲気を漂わせる女性……それに寄り添う大柄で朴訥とした男……彼である。彼が抱き抱える赤ん坊……毎年のように簡素な手紙と共に送られてくる写真に映るその子の足には、いつの頃からかきつく包帯が巻かれるようになっていった。それにはいつも血と膿が滲んで、何年経っても赤ん坊のような小ささから全く成長しているように見えない。
娘が産まれてすぐに、妻は彼と娘を置いて家を出てしまったようで現在はひとりで娘を育てているのだと彼は言う。
写真の中で穏やかに笑い、まるで恋人のように彼に甘える愛らしい少女の足。小さな……異様なほどに小さなそれは、贅を尽くした金の刺繍が施され、彼の職人としての全てを注いだであろう芸術品のような靴に、みっちりと捩じ込まれていた。
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