第七話 海百合と花狐
M県W町
ここには、人魚の肉を食べた女が二十年ほど年前から暮らしている。
ある日……まだ暑さの残る九月の頃だ。彼女がこの街の有力議員である浅野公造氏の元を訪れ、祖先から聞いているかは分からないが、自分はこの街が村だった頃に漁の安全を司っていた神子である、被害に遭った街に出来ることはないかと呼びかけた。
彼はとても驚いたが邪険に扱うことも出来ず、とりあえず真偽を確かめようと、大学で歴史を研究する博士を呼び彼女のことを調べさせた。
どうせ嘘だろうと思った。……しかし、最初は地元の大学の考古学の教授から次第に高名な……特に吉原や遊郭にまつわる民俗学の研究をしている博士にと彼女の話は次第に広まり、彼らは皆、彼女は本物です、と青ざめた顔で浅野氏に告げた。
本物の人魚の肉を食べた女だということで、話を聞きつけたメディアはひどく賑わったが、街の住人はみな彼らを拒絶し、女を匿うことに決め、この事は世に出る事はなかった。
なぜ住民がこれほどまでに女に味方したのか。……地元には彼女に関する伝説がいくつかあったことも理由ではあるのだが、これについては後述することにする。
次に議題にあがったのは女の処遇についてだ。これに関しては彼女からいくつかの要望があった。
彼女はとても賑やかな性格で、ひとり社に閉じ込められることを嫌った。そして街に留まる条件として、街でたくさんの人と関わる仕事がしたいと申し出た。
まだ復興も半ばで人のいない街であったから、町民はそれをとても喜んだ。ある時は保育所で子供の世話を焼き、ある時は年配の夫婦が営む喫茶店で働き、また別の日には観光施設の清掃をし、時には浅野氏の元で秘書をすることがあった。彼女は嫌がる事なく、どんな仕事でもよく働いた。
夜は小さなスナックを転々とし、大人たちが彼女のお酌で酒を飲んだ。彼女はとても若く美しい姿をしていたが、同時に人の話を聞くのが上手く、とくに恋に関しての相談には的確なアドバイスを与え、街の若者や観光で来た者……その他にも老若男女たくさんの人間を引き合わせ、結びつけた。
住む場所も、浅野氏が自宅の使っていない部屋を提供するとの申し出も断り、小さなアパートの一室で自分の力で生活している。
もちろん、街での仕事の傍ら神子としての役割も果たした。
月に一度、彼女は船の集まる漁港で舞を踊る。本人は、まだ踊れるかは分からないけど……と照れくさそうにしていたものの、その舞は幻想的で、彼女の祈祷のおかげだろうか、この街の漁師は他の地域に比べてとても稼ぎが良かった。今では、漁師であれば一生に一度は彼女に祈祷してもらうべき、と噂が広まり全国各地から彼女の舞を見に人が集まるほどになったらしい。
さて、前述した街の人々が彼女を匿った理由であるが、ここまで読んだ皆はもう解っていることだろう。彼女はそうした働き先でたくさんの友人を作り、そして飾らない性格で多くの信頼を集めたのだ。
話を聞く合間、取材陣は彼女に尋ねることがあった。自分で働かなくても暮せるし、もっと立派なところに住み、神子として神性を帯びた生活をした方が良いのではないか?と。
すると、彼女はにっこりと笑い、これが私の憧れていた生活なんです、と言った。結婚する事も、子供を産む事も出来ない……女としての生活は出来ないけれど、辛くても働いて自分の力で生活する…そんな当たり前の人間としての幸せを手に入れたい。優しい笑顔で力強く語る彼女は、とても輝いていたと覚えている。
余談ではあるが、彼女は洋菓子……生クリームがたっぷりと彩られたケーキに目がないらしく、取材中にもよく食べ、私たちにも振る舞う事もあった。特に、最近都会から移住して来た若い夫婦が営む小さなパティスリーの、小さなきつねの形のチョコレートが添えられたショートケーキが好きで、これは思い出の味なの、と、とても、とても大切に食べていた。
彼女の幸せな生活が、これからどれだけ続くかは分からない。
しかし、この街での生活が彼女の途方もなく……終わりの見えない人生に眩く輝く陽だまりである事は確かだろう。
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