番外編 ある軍人の話
私の隣の家には、先の戦争で退役した軍人が住んでいる。
彼は腕と脚が付け根からなく、左の目も抉られたようで縫い綴じられて痛々しくも見えるが、隆起した筋肉はとても逞しく、退役してもまだ衰えることなく獣のような雰囲気を纏っていた。
性格はとても明るく、庭で遊ぶ娘や妻にも軽いジョークを言っては和ませ、大工仕事のコツを指導するなど恐ろしげな容姿にもかかわらず私の近所では彼を慕う者が多くいた。
家族はいないようで、部下であったらしい暗い目をした痩せた男と共に暮らし、毎日決まった時間に男の押す車椅子に乗せられ、その日の買い出しついでに近所を散歩するのが日課だった。その時には必ず、やわらかな白いテディベアをぶ厚い胸板で包むように、大切に大切に紐で体に括り付け
「ジャック、今日はとてもいい天気だな。お前の目のような青い空だ」
と陽気に声をかけているのだ。
私はその様子をひどく不気味に思った。
きっと戦争で、辛いことがあったのよ。と妻は言う。たしかにそうかもしれない。
けれども、彼がもし、人を殺しているうちに、なにかしらの異常をきたしていたら。それが家族に牙を剥いたら、私は家族を守れるのだろうか?
ある日、男が一人で庭の手入れをしているところを見計らい、僕は彼のことを尋ねる事にした。彼の手足のこと、ジャックと呼ぶぬいぐるみのこと。それらは私たちに何も害はないのか。
男はぎょろりとした目で私を見遣ると、ぽつりと、知りたいのですか?と訊いた。私が頷くと、本当に?と念を押し男は静かに、彼のことについて話し出した。
彼はとても優秀な兵士だった。
けれども、人としても優秀すぎた。
彼はたくさんの人を撃ち殺し、仕掛けた地雷は的確に人の命を奪った。その記録は未だ破られていないらしい。
そんな彼が出会ったのは敵国の……真っ白なテディベアを抱えた少年、ジャックだ。彼は八歳だった。目の前で母親が撃ち殺されたにもかかわらず、兵隊さん兵隊さんとよく懐いた。
皆、少年を殺してしまおうとしたが彼はそれを許さなかった。幼い子供は保護しなくてはいけないと、大切に大切に護り続けた。まるで自分が撃ち殺してしまった親のように。
ある日、彼が敵国の少年を保護しているということは上官の耳に届いた。彼は少年に暴行を加えようとするのを必死で止めた。それはまるで獣のような暴れぶりだった。
上官は彼の腕を切り落とした。それでも彼は丸太のような脚で二度三度と蹴りを入れてあばらの骨を折った。
次に脚を切り落とした。それでも彼は上官の脚に噛みつき脚の腱を食いちぎった。
次に目をえぐった。それでも彼は唾を吐き、口汚く上官を罵倒する事をやめなかった。
彼はついに捕らえられ、投薬治療をほどこされた。精神を病み、戦いたくないと言う兵士を無理矢理戦わせるための違法な薬だ。それによって彼はあっさり心を病んだ。
そこまで語って聞かせると男は呆れたように、けれどもどこか誇らしげに言葉をつづける。俺たちのリーダーは、とても立派な兵士だよ。それは今でも何一つだって変わらない、と。
ふと、私は彼が命を賭して守ろうとしたジャックの行く末が気になった。それを尋ねると、男は自嘲するように言い淀み、暗い瞳に影を落としてぽつりと呟く。
「あの子は女にするように陵辱され、犯され、嘲笑われながら殺されていったよ。それが、戦争だと分かっているけれど……丸腰の、敵意のない幼い子供が何をしたって言うんだ」
次の日も、彼は男の押す車椅子に乗り、紐で身体にくくりつけたテディベアへ愛おしそうに声をかけている。
「ああ、ジャック。見てくれ、これは東の国から来た花だそうだ。美しいなあ……」
庭の手入れをしている私に気づくと、彼は身振りでコミュニケーションができない分、ハリのある大きな声で話しかけてくれた。
「ごきげんよう、エドワードさん!今日はとてもいい天気ですね!庭の手入れがはかどりそうだ!」
私は、会釈をするといつもと違う挨拶を返す事にした。
「ウィリアムさん……ジャックも、ごきげんよう。今日はとても楽しそうだね?ウィリアムさんと一緒で嬉しいのかな」
彼は、傷だらけの顔をくしゃくしゃにして笑い「ああ、そうだと嬉しいなあ」と少しだけ寂しそうに呟いた。
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