Mother

「ママ、どうしたの?」


 一二三ひふみが心配そうな目でわたしを見上げる。五歳になる我が子には、口が裂けても本当のことは言えない。握っているその小さな手を「大丈夫よ」と強く握り返した。


「おなか、いたい?」


 この子なりにわたしを気遣ってくれているんだろう。一二三優しい子。そう。一二三はおかあさんわたしのことを、心の底から案じてくれている。だからこそ、本当のことを言うわけにはいかない。


「……大丈夫」


 下腹部がジワジワと痛い。ここんところ、ずっとそう。時折おなかをさすってしまう。それが一二三には『おなかが痛い時のポーズ』に見えるんだろう。

 思い当たる原因は、しかない。

 その原因さえ取り除けたら、この痛みからも解放される。


 それができれば苦労しない。


「……」


 優しい一二三は俯いて、わたしに手を引かれる。子どもなりに、ママのことを考えてくれているんだろう。もうじき保育園に着く。


「ほいくえん、いきたくない」


 不意に立ち止まり、わたしの手を離した。

 視線はアスファルトに向けたまま、その場にしゃがみ込む。


「ちょっと、一二三ちゃん」


 わたしは一二三を無理矢理立たせようと同じようにしゃがみ込んで、うめきそうになる。一二三の見ている前で弱っているところを見せたらさらに心配させてしまう。唇を噛み締めて痛みをこらえた。

 

「今日はお絵描きがんばるって、おにいちゃんに話してたじゃない」


 おにいちゃん。一二三の兄。おにいちゃんを引き合いに出せば、一二三は「……うん」と立ち上がってくれる。……わたしは一二三を諭すような表情を作れていただろうか。


「ママは、おいしゃさんいく?」


 わたしの『おなかいたい』はお医者さんに行ってどうにかなるもの、でもないと思う。原因を取り除かなければ、根本的な解決にはならない。それに、お医者さんになんと話せばいいか。包み隠さず、再婚相手の連れ子から性暴力を受けています、と言えたら……。お医者さんはなんて返してくるだろう。その反応が怖い。

 薬は、――薬は、飲まないといけない。飲まなくちゃ。今日も忘れずに飲もう。


「おいしゃさんにおなかみてもらって、おなかいたいいたいのおくすり、もらう?」


 大丈夫と答えたけど、一二三はまだ気にしていたらしい。ここは「一二三ちゃんが保育園に行っている間に、お医者さん行ってくるね」と答えて安心させよう。実際には行かなくてもだ。

 一二三はついていこうとまではしない。一二三の中で、病院は恐ろしい場所となっている。恐ろしい場所ではあるけども、診てもらって、いただいた薬を飲んだら治ったから、わたしにおいしゃさんを勧めているんだろう。


 前に一度、小児科にかかった時にギャン泣きした。本人が風邪っぽくて体調が悪かったのもあるけど、基本的には一二三は男の人が苦手なのだ。初対面の男性の小児科医に、心を開くはずもない。

 苦手にしてしまったのはわたしが原因でもある……。一二三があの男に懐いているのは、やはりあの男が一二三にとって特別な存在だからだ。あの男にとってもそうであるように。


 わたしがもっと頑張っていれば。一二三の父親と別れることもなかった。男の人が嫌いになることもない。そうすれば、今の参宮家に来ることもなくて。


「ママもおいしゃさんこわいよね。ひいちゃんはおえかきがんばるから、ママもがんばって」


 ママは、お医者さん怖くない。


「うん。ありがとう」

「じゃあ、いきます」


 口から出かかった「行かないで」の言葉を飲み込む。

 言ったら一二三を困らせてしまう。


 そう、ママが頑張ればいい。


 一二三が家にいてくれたら、あの男はわたしに手を出してこない。あの男は一二三のおにいちゃんであろうとする。一二三が見ている前でわたしを犯そうとはしない。保育園が休みの時はそうだった。一二三がいる時はわたしではなく一二三に付きまとう。この間は一二三を動物園に連れて行って、帰ってきた。一二三は喜んでいたけども、わたしは内心、一二三に危害を加えるのではなかろうかとヒヤヒヤして、影から監視していた。あの男の一二三への愛情は、妹に向けるためのものであって、いわゆる肉欲の類ではないようだ。――それがいつまで続くかを、警戒している。わたしはまだ、頑張れる。わたしではなく、一二三に向かっていくのは、絶対に許してはならない。


 隼人さんは忙しくて、家にいる時間は少ない。隼人さんにとっては、寝に帰るだけの家。隼人さんが家にいる時も、あの男は大人しくしてい

 あの男は実の父親である隼人さんのことが怖いのだ。幼少期から暴力を振るわれ、自死を考えるほどには追い詰められた、ただ、頼れる親戚も相談できる大人もいなくて、父親の存在がなくなったら自分の生活が立ち行かなくなるから、従いながら生きてきたのだと涙ながらに身の上を語ってくれた。確かに同情すべき、つらい人生を送っているのだと思う。

 しかし、だからといって、一二三と隼人さんが寝静まってから、義理の母親わたしに矛先を向けてくるのはおかしい。あの男の中では筋道通っていて、ということになってしまっている。


 最初に出会った時に、背筋がゾワりとした。

 その悪い予感は当たってしまった。


 あの夜の、一回の行為の後から、あの男はと思い込んでいる。


 一二三を保育園に預けたら、家ではわたしとあの男の二人きりになってしまう。今日もまた、これから、家に帰らないといけない。なんだかんだ言っても、参宮家あの家がわたしの今の家だから。わたしが頑張ればいい。他に帰る場所などない。

 一日一回でもそのような行為ができれば、あの男としては満足するらしい。だから、殴られる前に――わたしも、おかしくなっちゃったのかな――ちゃっちゃと一回終わらせて、あとは家のことをこなせばいい。したくてしているわけじゃないのに、わたしから求めているをすると早く終わる。女からせがまれると嬉しいものらしい。


 この道を曲がれば、実家に続いている。実家に戻るつもりはない。とっくに親子の縁は切れている。お母様だって、こんなわたしと会いたくはないだろう。お母様にとってのはすでにいない。今いるわたしはだから、お母様と会うことは、もうない。


 なのに、なんだろう。

 時折すんごく、心細くなる。


 わたしは優しい一二三のために、頑張らなきゃいけないのに、そう思えば思うほど、泣いてしまいそうになるのだ。

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