第34話 カーネーションの花束を 〈後編〉
現在から一年とちょっとだけ前の話をしよう。
***
父親が後妻さんとひいちゃんを初めて連れてきたこのとき、俺は。
『好きになってもらわなければならない』
そう思った。あまりにも近いから、断定してしまいそうになるほどの確信がある。これが自我が芽生えてからこの年齢に育ってしまうまで俺に足りていなかった〝家族愛〟という概念なのだとすれば、この機会で絶対に手に入れなければならないと思う。
ただ、あちらから向けられていたのは鮮明な拒絶だった。あの目は一生忘れない。一般的な常識に照らし合わせて客観的に状況を鑑みれば、再婚相手に息子がいて、なおかつ自分と二つか三つぐらいしか年齢が変わらないのは、受け入れるのに時間がかかるだろう。第一印象が最悪なのは仕方ないとはいえ、傷が癒えるのにはそれ相応の時間がかかった。
「あの……この人は?」
「息子の
「息子さん?」
旦那と俺の顔とを見比べる後妻さん。
そのまあるい瞳を交互に揺らしていた。
「どうも。父がお世話になっております」
「それは違うんじゃあないか?」
俺という存在を隠し続けていた父親にも問題がある。時間をかけて理解していただけるまで俺の存在を後妻さんに説明していれば、初っぱなから俺が拒絶されることはなかったんじゃあないか。共に暮らしていくのに、俺の存在は無視できなかったはずだ。あるいは俺をこの家に置き去りにして後妻さんとひいちゃんと共に三人で過ごすための住処を別の場所に用意してほしかった。もしくは俺を追い出す先を用意しておくとかさ。やり方はいくらでも考えられる。
そこまで頭が回らなかったのか、それとも、この短絡さこそが〝恋〟というものなのか。
「おかあさん」
俺が呼びかけると、後妻さんはわかりやすくうろたえてくれた。
血のつながった肉親の行動は、巻き込まれるだけの俺には到底理解し難い。とはいえ思考は放棄せず、父親の行動が完全に誤りであったと決めつけるのではなく、俺なりにこの時の父親の行動が正しかったのかを考えたのだが、ポジティブに捉えた時は『彼も彼なりに、俺の中に存在しない〝母親〟を埋め合わせようとしてくれていたのではないか』逆にネガティブに解釈した場合は『後妻さんとの〝愛〟を何よりも優先して、自分の付属品たる
後者のほうが可能性は高いが、ただ一人と表現しても過言ではない
前者なのだとすれば遅すぎる。俺がまだ思春期にも入っていないほど若く――ひいちゃんと同い年ぐらいであればともかく。単位を取り尽くしてあとは卒業式と院試の日を待つだけの身だった。ひょっとして、俺のほうが気を利かせてあの家を出て行けばよかったのか? ……いや、なぜ俺が追い立てられなければならないのか。意味がわからない。
「おにいちゃん!」
父親と後妻さんとの大恋愛に巻き込まれた(俺と同じ)被害者であるひいちゃんは最初から俺を『おにいちゃん』と呼びかけてくれた。
***
後妻さんは、俺への微妙な距離感や不要な遠慮さえ除けば『理想の母親』であった。ここでの理想は、一般論的な理想だ。料理上手で家事が得意で要領がよく近所付き合いも――あとからコミュニティに入ってきたにもかかわらず周囲に溶け込むのが異様にうまく、悪い噂は俺の耳には届かなかった――順風満帆。美人で可愛くて、どうして俺の父親に引っかかってしまったのかだけが謎だった。聞いたところで惚気られてもつまらないから聞いたことはない。
初めて父親を羨ましいと思った。嫉妬で苦しい。こんなアラフィフおじさんよりも、俺のほうが優れているはずだ。俺は悪くない。俺の胸の内にはこの父親から後妻さんを奪い取ってしまいたい気持ちが去来していた。この両腕を限界まで広げても抱えきれないほどたくさんの愛を、俺だけに捧げてほしい!
その娘であるひいちゃんもまた、母親譲りのコミュニケーション力によって転園先の幼稚園で人気者となっている。迎えにいくと必ず一人は男の子がついてきた。護衛かな。行くたびに別の男の子になっているので訊いてみると「おにいちゃんに会いたいっていうから」と答えられた。俺目当てなのね。
誰もが俺を『頭がいい』『賢い』と褒め立てて、成績表も優秀そのもの。期待と評価が俺を
だって〝母親〟だから、俺を見捨てないはずだ。
どこにも逃げない。ひいちゃんに向けるような無償の愛情を俺にも向けなければならない。全部欲しい。欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい……。
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