第55話 “I am your mother” 〈episode III〉


 父親あいつが俺よりマシ?


「は?」

「だってそうじゃん。じゃん?」


 じゃん?


 じゃねェけど。何も知らないくせによく言うよ。あいつはただ、同世代の親たち、特に女親の方から「男手ひとりで男の子を育てるなんて!」と褒められたかっただけ。


 親の集まる行事には必ずやってきた。職場でも「嫁に逃げられて息子を男」で押し通していたようだから、休みも取りやすかったらしい。本心では『有給休暇を取得できるちょうどいい言い訳』ぐらいにしか思っていないのだと。俺にだけ、嬉しそうに語ってくれた。外では口が裂けても言わない。


 あいつにとっての俺は、みたいなもの。

 アクセサリーの一部。


 あるいは、己の承認欲求を満たすためのオモチャ。


 俺は求められるがままに――〝よき父親〟を演出させる――嘘をつき、偽りの父子家庭を創り上げた。人聞きの悪い言葉を使わず、家の中でも外でもとっっっっっっっっても素晴らしい〝父親〟であるかのようにパフォーマンスを続けた。実態を隠し通す。口を滑らせようとしたことは、一度や二度ではない。だが、俺は言わなかった。ささやかな反抗は思い浮かんでは消える。


 報復に怯えていた。あるいは、すっかり麻痺してしまっていた。


 いや、一回あったな。反抗期。例の『生まれてこなければよかったのに』の後に、俺は自殺を試みようとして、こともあろうかあいつに止められる。息子に先立たれたら、不慮の事故ではなく自らの意志で死を選ばれたら、せっかく築き上げた自らの〝評価〟が凋落してしまう。何がなんでも止めなくてはならない。そうだよな。俺はこういう人間だから、あいつの立場でも考えてしまう。わかるよ。父親として、予測できる事態は避けなければならない。


 結果、あいつの俺への接し方や態度が変わったかといえば変化はなかった。むしろ悪化したと言える。表向きには見えないように、親子として束縛され続けた。一般的にはと呼ばれているらしい。知らなかった。早く教えてほしい。皆が皆、家庭の事情は他人に喋らず、それっぽく見せているのかと思い込んでいた。


 なんてみじめでかわいそうなんでしょう。


 俺が他人に朗々と語る普通の家庭が、現実であってほしかったな。


 まあ、そうであったなら、今の俺はいないか。違う俺になっているだろう。でも、後妻さんと再婚していなかった可能性はある。そしたらひいちゃんとは出会えていない。それは困る。


 ありもしない過去の話をして、現実逃避していても仕方ない。


 俺は面前のユニにどんな言葉を返すかへ考えを巡らせる。昨晩は甘ったるい猫撫で声でささやいてくれたのに、数時間経てば子犬のようにキャンキャン吠えてきているのだから女さんわからない。瞬間瞬間で様変わりするのを『女心と秋の空』とはよく言ったもので、すなわちこのようなシーンを想定した古臭くも有難いお言葉なのだろう。


「君が今こうして、五体満足で、日本語で意思疎通ができるのは父親のおかげ。として、子どもに向き合い、育てた成果」


 わかった、わかったよもう。もうたくさんだ。あいつの話はしたくない。


「俺が子どもを中絶させたように、俺の実の母親この人は俺を捨てたんだから俺には会いたくない、って?」


 何やら言いたげなユニの、その顔を右手で押さえつける。


「当事者ではないユニが決めつけんなよな。俺の母親であるこの人は、俺の父親あいつは育ててくれはしたが、実際にそうだけどさ、俺のことなんて自分の〝価値〟を高めるための付属品ぐらいにしか思ってねェもん。俺が生まれてから、あいつが事故で死ぬまでに、一回も。あいつから『好き』って言われていない」


 口を挟ませないように物理的にさえぎったこの右手を、ユニは両手で掴んで外すと「だからね」と言い返してきた。


 なにそれ。


「親から子どもに『好き』とは言わないでしょう。好きなのが当然なんだから」

「……説得力ねェな」


 ユニは唇を尖らせて「んもー! 揚げ足取らないのー! もー! そういうとこだぞー! キラーイ!」と言い放ってから、ベーっと舌を出す。親指を下に向けた。ただでさえも弱すぎる説得力がさらに弱まってくる。


 じゃあ、何。

 俺があいつから振るわれていた暴力は何。


 耐えなければならなかったの。耐えられたから耐えてしまった。その結果がここにいる。もしかしてあれが愛情なのか。愛情の正体。あいつなりの『好き』の表現技法だったってこと?


 ぜんっぜん伝わってないな。


「なんとなーくそこはかとなーく君の思考ロジックがわかってきちゃった。ような気がしなくもない。たぶん。ここをこうしてこうじゃ。思い違いかもしれない。同意はできないし、嫌いなのには変わりないけどねん」


 あっ、そう。それならよかった。……ほんとにぃ?


「面談させてあげるよーん。ちょうど今日、Zoomで顔合わせする予定だったもん。君の屁理屈ごりっごりの理想が正しいかどうかの……答え合わせをしよう誤りだから絶望しろ


『あ、そうだったん? 自分も同席してええか?』


 スピーカーから音声が発せられて、俺とユニは同時にモニタを見た。ユニが俺の前に割り込んで、マウスを動かし、起動して最小化されていたアプリのウィンドウを手前に表示させる。


 深緑色の髪を一つに束ねた――男? がいた。その声は中性的で、男とも女とも判別できない。色白で、糸目で、髪型もあいまって判断しづらい。だが、左上に表示されている名前から、男だと結論づけた。〝五代英伍〟とある。


 世の親は〝英伍〟なんて名前を女の子には付けないだろう。

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