第46話 兎は無慈悲な俺の女王 〈前編〉

 ウエノ駅に近づいて行けば、駅舎こそ潰れてはいなかったものの、あまりの人の多さに目が回りそうになった。人の重さで崩れてしまうんじゃねェかと疑っちまうほど。これだけの人々がこの周辺にいて、この場所から別の場所へと移動しようとしている。こんな出来事が起こらなければ一生顔を見ることはなかったであろう、名前も知らない人間の群れ。


 弐瓶教授は『今すぐに来い』と言っていた。通常通りならば小一時間ほどであちらの研究室の最寄駅に到着する。電車は動いているようだ。しかし、この人数では、乗れるようになるまで何時間かかるか想像もつかない。あちこちで怒号が飛び交う。怒ったところでどうにもならないのは、冷静になればわかりそうなもんなのに。まあ、声を上げなければ気が済まない人種がいるのもわかる。行きどころのない不安や恐怖が渦巻いていた。


 かといってタクシーでの移動も難しそうだ。長蛇の列が形成されている。一般路も高速も大渋滞。車が数珠繋ぎに、ミリ単位で動いていた。


 誰しもが安心したい。大切な人の身の安全を確認したいから、携帯端末を握りしめて右往左往したり、数少ない公衆電話に並んだり。俺も、やはり、祖母の安否を気にかけたほうがいいのだろうか。正常ならばそうなんだろう。あれだけのことをこの俺に言ってくれちゃって、他に住めるような場所のない俺を追い出してくれた祖母。……まあ、言われるだけのことをしてしまった。


 俺はらしい。

 なら、いっそのこと、開き直ってしまったほうが気は楽なのかも。


 人々は自宅に帰りたいのだろう。自宅か、あるいは、守らなければならない居場所に向かいたい。昨日まで住んでいた場所を追い出されたばかりの俺は、このような状況下にもかかわらずこの俺に連絡してきてくれた弐瓶教授の元に行くしかない。弐瓶教授にも、俺より優先して連絡を取りたい人がいるだろうに。わざわざ俺に電話してきたってことは、どうしても来てほしいってことだ。他に行きたい場所は、――祖母と安藤もあの死体を残してきた、後妻さんの実家に戻るべきなのかな。俺。まだ悩むか。


 電車やタクシーが使えないとなると、研究室へは歩いて向かうしかない。ルートは、まあ、電車の線路を見ながら行けばなんとかなる。時間はかかるだろうけど、現時点で使用できそうな移動手段が徒歩しかないのだから仕方あるまい。ついでに、後妻さんの実家の前を通っていけばいい。そうだ。そうしよう。遠回りにはなるが、どうせ時間はかかってしまうんだから。


 この交通状況を知れば、どう考えても『今すぐ』には来られないと、弐瓶教授も諦めてくれるに違いない。……あの人はあの研究室にずっと閉じこもっているからわかんねェか。


 にしても、ドラムバッグを肩にかけている俺って、近隣住民が近くの避難所に避難しているようにも見えるんだろうか。

 準備がよすぎない?


『いた!』


 ぞろぞろと歩いている人の波に加わりながら進んでいると、背後から声をかけられて、さらには右膝に抱きつかれた。見れば、小学校低学年ぐらいの男の子だ。残念ながらこんなちびっ子の知り合いはいない。ひいちゃんと同じ保育園に通っていた子ならともかく、この顔は見覚えがない。つまり、人違いだろう。


「何?」


 俺が反応してやると、男の子は『あ、……ごめんなさい……まちがえました』と顔を俯けて離れた。後ろの人が怪訝そうにじろじろとこちらを見てくるので、俺と男の子は列からずれて街灯の下に移動する。

 まあ、そうだろうよ。


『ぼく、あの、おにいちゃんとはぐれちゃって』

『おにいちゃん』

「そう」

『おにいちゃんといっしょに、遊びに来てて、家に帰ろってしてたんだけど、手がはなれちゃって』

『たすけてあげて』


 迷子かあ。この状況だと仕方ないよな。人が多すぎる。っていうか、警察に連れて行けばいいんかな。俺がなんとかできる問題でもねェもん。


「お名前は?」

五代晴人ごだいはると


 はるとくんね。

 名前が言えるなら、あとはなんとかなるっしょ。


『おにいちゃん、さがしてくれる?』

「俺が?」

『さがしてくれる?』

『みすてないで』


 そんな目で見られても、俺は人探しのプロではない。おねえちゃんならまだ探す気になったかもね。一番近くの交番に連れて行こう。あとは野となれ山となれ。俺は後妻さん家に寄ってから弐瓶教授の研究室へ行かなきゃならんしな。


『おにいちゃん』

「この人の中で、お前のおにいちゃんを探すのは無理だから。交番で、おにいちゃんが来るのをおとなしく待っていたほうがいいよ。変に歩き回って、変な人にぶつかったら何されるかわからんしさ」

『おにいちゃん』

『うん……わかった……』


 はるとくんは納得してくれたようだ。

 なんか知らんおっさんにでもどつかれたか?


「おにいちゃんもはるとくんのことを探してるだろうから、すぐ来てくれるよ」

『おにいちゃん』


 なんか、さっきから女の子の声がするんだけど何。

 ここでなんか言っても、はるとくんを怖がらせちゃうから無視してんだけど。はるとくんにも聞こえてんのかな。……でも、俺のほうしか見てねぇしな。なんだ? 空耳?


『おにいちゃんの名前は?』

「俺の名前? 聞いてどうすんの?」

『おにいちゃん』

『助けてくれた人には、おれいをしないとダメですよって、学校で習ったから』

「まだ助けたわけじゃあないけど……」

『おにいちゃん』


 うるせ。なんだよ。どっから声がしてんの。


『でも、おにいちゃんがいなかったらぼく、どうしたらいいかわかんなかったから』

『おにいちゃんはたすけてくれるよね。ほんとうはやさしいんだもの』

「手当たり次第に膝に抱きついてたってわけか。確率低いよな」


 会話しながら交番へ向かう。逆方向に進んでいく人たちに巻き込まれないように、手はつないでおく。こうして小さい手を握って歩くのは久しぶりだ。


『おにいちゃんの名前、わすれないようにする! だから教えて!』


 別に教えたくねェわけじゃあないんだけどさ。

 そこまで大したことしてないからな……。


参宮拓三さんぐうたくみだよ」

『さんぐーさん! おぼえた!』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る