Phase2

第45話 Magnitude

 不幸というものは人間がどれだけ備えていても、予想だにしない方角から降り注ぐものだ。


 荷物をまとめて――俺の持ち物なんてもとより大した量はないのだが、ドラムバッグに着替えとウサギのぬいぐるみを入れたらそれなりの大荷物になってしまって閉口した――テーブルの上に鍵を置き、家を出る。行き先がパッと思いつかないので、一旦腰を落ち着けようとシノバズ池に向かった。何かを期待していたのかもしれない。その何かが起こる可能性は極めて低いのだけど。


 父親と後妻さんと、俺とひいちゃんとが写っている家族写真は、置いてきた。俺は人間ではないらしいので、人間的な感傷はなるべく排していこう。〝家族愛〟という、二度と手に入らない幻想を追い求めるのではなく、より形のない、具体性のない、ぼんやりとしていて掴みどころのない、輪郭のない……心の平穏を手に入れた時に、きっと正解が見えてくるはずだ。


 何言ってんだろうな。

 平穏なんて、どこにもない。


 父親の言う通り、俺は『生まれてこなければよかった』んだよ。ウケる。開始地点が間違っているのだから、どれだけ正しい道に戻ろうとしても戻れない。そうだよ。俺が、そう、アンゴルモアの並大抵ではない努力を認めて、安藤もあとして生きていく人生についていけばよかった。


 彼女の言う通り、周りの援助を受けながら五ヶ月と十日ほど経ってから生まれてくるであろう子どもを育てていくのが正解。今、一人で、ここにいる俺は不正解。俺の過去なんてどうでもいい。全てを忘れて、あの父親と同じ過ちを繰り返さないように生きていけばよかった。


 彼女は死ぬべきではなく人間として生きていくべきだったのに、その将来を存在し得ないものにしてしまったのは、全部、俺のせいだ。どれだけ嘆いても、戻ってこない。誰もがこう答えてほしいとわかっているのに、答えられなかった。俺が悪い。そうだ。だから、安藤もあは首を吊って死んでしまって、祖母は俺を追い出した。


「……ははは」


 視界が揺れる。


 死のうかな。

 死んで許されるわけではないけれども。


 俺が死ねば、安藤もあが帰ってくるわけでもない。彼女のうつろな目がフラッシュバックして、訴えかけてくる。最期の、動かなくなった姿を思い出してしまう。それよりも前の表情を思い出せない。あれだけ写真を撮って、形には残っているのに、記憶に焼き付いているのは物言わぬ死骸だけ。


 もっと彼女と過ごす時間があれば、こうはならなかっただろうか。ひいちゃんなら、生前の笑顔や走り回っていた姿や、泣いたり怒ったりの表情が思い出せるのに。安藤もあが安藤もあとして活動していた頃の映像よりも、安藤もあとして亡くなってしまった現実のほうが脳内メモリーの莫大な領域を占めている。


 これだけの後悔があるのなら、俺は、正解を選び取るべきだったのだ。


「はは」


 どうしてだろう。


 俺は俺自身の考えで俺の人生を歩んでいきたかったはずなのに、どうして間違った道を選んでしまったのか。実は、周りが言うほど俺って大したことなかったんじゃあないの。周りが言うように俺が天才だったのなら、こんなに苦しい気持ちになる前に気付けたはずだ。安藤もあが死を選ぶ前に、踏みとどまってもらえたかもしれない。


 ベンチから立ち上がり、一歩ずつ池に進んでいく。ひいちゃんは、後妻さんの元旦那のバイクが乗っていた車にぶつかった衝撃で気を失い、その後、俺の父親が車を制御しきれずにこの池に突っ込んだせいで、ベルトを外せずに溺死した。俺も沈んでしまえばいい。そうすれば、あの世でひいちゃんと再会できる。気付くまでに時間がかかっちゃったな。


 ごめんねひいちゃん。

 今から『おにいちゃん』が行くから、待っていてほしい。


「ははははははは!」


 地面が揺れている。俺が池に近づくごとに、その揺れは激しくなっていった。よろめいて、木にぶつかる。この国は地震が多い国ではあるのだが、この揺れは、俺が生まれてからの現在までに経験したことのないぐらいに大きい。しがみついていなければ倒されてしまいそうだ。


 しかも、長い。


「は、ははは」


 繁華街の方に視線を注げば、揺れに耐えきれなくなった建物がゆっくりと倒れていくのがわかる。崩れていき、その隣の建物を押しやった。壁を削り取り、その一部分が散り散りになる。俺の周辺には池とそれを取り囲む木々しかないので、瓦礫は飛んでこない。


 おさまらぬ揺れの中、安全な場所へ避難しようと走る人と、どうしようもなくその場に座り込む人とが見える。俺はドラムバッグから携帯端末を取り出して、……誰に連絡するべきかと逡巡した。今更とも思うが、最初に思い至ったのは祖母の安否だ。最終的に俺を人間扱いしなくなってしまった人なのに、こうなると心配になってくる。血縁上のつながりはなくとも、――はっきり言って最後は顔も見たくないとまで思っていたにもかかわらず、電話をかけようとして、着信音が鳴り響いた。


 弐瓶教授からだ。


「よくもやってくれたな」


 こちらが何らかの挨拶をするよりも早く、弐瓶教授は俺をなじってきた。その声色にはありったけの憎悪がこもっている。続けざまに「話は私の研究室でするから、今すぐに来い」と指示して、電話はブチっと切れてしまった。


 こっちは死のうとしてたのに、天災に邪魔されるなんて。

 俺の人生はどうにもうまくいかないようにできているらしい。


 折り返してかけようとすると、俺と同じように見知った人の安否を気にする者がたくさんいるようで、繋がりにくくなってしまった。

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