第40話 パラサイト・エバ 〈前編〉
出て行きたくない。
寝床があって、一日三食美味しい食事が提供されて、掃除洗濯もしてくれて、何不自由なく人間的な生活が送れている。俺が何にもしなくても文句は言われない。かつての――父親と俺の二人で生活していた頃と比べて、人並みに普通の幸せを享受している。最初の頃は『祖父母からの同情』だなどと唾棄してしまったけれど、考えてみれば、書類上とはいえ孫である俺を可愛がってくれているんじゃあなかろうか。
一度快適な暮らしを知ってしまった俺が、今度は一人で暮らしていけるかというと不安のほうが強い。金はまだあるから、ホテル暮らしでもすればいいのかな。寝泊まりさせてくれそうな知り合いに連絡するのもいいか。
俺は意志に反して座っていた席から離れると、その足で台所に向かう。
向かうというよりは足が勝手に台所に動いていった。
「タクミくん、まだ話は終わってないわ!」
祖母は注意してきたが、俺は現在進行形で身体を操られている。自分の意志でコントロールできていない。あれだ。コズミックなやつ。動物園で披露した、寄生だとかそういう。こんな形で使ってくるとはな。
俺は台所の引き出しを左手で開けると、右手に包丁を握り締めた。
「言え」
安藤もあはこれまで聞いたことのないような、例えるなら動物の唸り声のような声色で凄んでくる。
そして俺は右手に握った包丁を自らの首元に近づけた。こうして脅せば、俺がこれまでの意見を覆してこの家に留まり、これまで通りの生活をしながら五ヶ月と十日後ぐらいに産まれてくる子どもと共に暮らしていける、とでも思ってんだろ。安藤もあとしては俺に『産もう』って言ってほしいんだもんな。わかってんだよ。ここで俺の
弐瓶教授の手は傷ひとつなく綺麗だけど、安藤もあの手は傷だらけ。宇宙人が
いいよ。
わかった。
こうしよう。
「今ここで俺を殺すのか、それとも、そいつを殺すのか。どっちかにしてくれよ」
俺はまだ死にたくない。
まだ死にたくない。まだ、俺自身の人生は始まってすらいないから。これから始まるべきところで、こんなところで終わらせられたくはない。俺は悪くない。前回も今回も同じ。俺はとっても、とてもとても可哀想な存在なのだから!
他人の言われるがまま、他人の言いなりになって、他人の意見に踊らされ続けている。人生は空虚な二十数年だった。他人さえ全員いなくなってしまえば、ようやく俺は俺の人生を選び取れる。俺は今、死ぬべきではなくて、死ぬのはこの世に産まれてすらいない、名前すらない、腹の中のそいつだ。
「その包丁を放しなさい!」
祖母が喚いた。できるんならやってるよ。
なんだろ。この人からはどう見えてんの? この人はコズミックパワーがどうのなんて知らねェから、俺がヤケになって自殺しようとしてるように見えんのか?
それならさっきのセリフは意味わからんよな。俺〝を〟殺すって。……まあ、それもヤケになってよくわからんセリフを吐いてるように聞こえるのかも。
で、どうすんの、安藤もあさんは。
もう一個、言っておいたほうがいい?
「お前は周りが協力してやるって言ってるから『いける!』って思ってんのかもしれんけど、俺を殺したとして生まれてきた本人が辛いだけだよ。俺がそうだったようにな」
協力するって言っても所詮は他人だしな。っていうか、祖母と安藤もあとのつながりなんて薄すぎてすぐ破れちまいそうなもんじゃん。宇宙人だってバレてみろ。秒で崩壊するぞ。人間は、宇宙人が思っているほど寛容ではない生き物だから。
それに、四六時中、子どもの面倒を見てくれるわけじゃあない。何があっても親の責任になる。親が目を離していたからとか、親がしっかりしていないからだとか。それで何度この俺が、あの父親から理不尽に殴られたと思ってんの。産んだら終わりじゃなくて、産まれてからが始まりなんだよ。
子どもって、そういうものだから。
もっとも弱くてもっとも手がかかるから、本当に本当に本当に嫌いだ。
大嫌いだ。
そんなのはいらない。俺はそんなものに振り回されたくない。本当にいらない。なんであんなものが愛の証明だとか言われんの。……こんなことを思っている親のもとに生まれてくる子ども、生きづらいと思う。だから、俺か子どもかのどっちかを選んでほしい。将来どうなるかちゃんと考えた上でね。
それで、結局、愛って何なの。
好きって何?
「本当に俺のことが好きだっていうなら、俺だけを愛してほしい」
愛しているからとか、好きだからとか、そんな御託を並べても誰も幸せにはならない。そういう幻想を信じていたいのなら、こちらから言ってあげられるのはこの言葉しかない。自分が信じていないものを、押し付けるような形にはなるが。こう言うしかない。
右手が自由になって、包丁は床に落下した。
どうやら寄生を解いてくれたっぽい。
「……考えさせて」
安藤もあはそう言い残すと、自室として使用している後妻さんの部屋に駆け込んでしまった。
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