SeasonY

Phase1

第26話 機械仕掛けのオレンジ 〈前編〉


 不幸というものは人間がどれだけ備えていても、突拍子もなく襲いくるものだ。


 当日はあまりの現実味のなさに、自分のことだというのに他人事としか思えなかった。あの子は悪くない。そうでないと自分を見失ってしまいそうになる、というよりは、脳の回転が追いつかない、というほうが正しい。


 あれだけ周囲から賢いだの神童だのと言われて育ち、その言葉を証明するかのように成績優秀で、大学院の入学試験でもミスがなく満点だった俺だが、不測の事態においては非力であった。あの子は悪くない。ただ流れるままに、この20XX年のニホンにおいて書かねばならぬ定型文の書類に筆を走らせた。


 あのときから今日に至るまでに〝参宮拓三さんぐうたくみ〟という俺の名前を、何回書いただろう。


 あのときの俺〝は〟万全を期して、ありとあらゆる準備を整えてから試験に臨んだ。ひいちゃんの折ってくれた折り紙をお守りとして胸ポケットにしまって、ひいちゃんがおこづかいで買ってくれた鉛筆を使った。今もポケットに入っている。鉛筆は後ほど使用する――かどうかはわからない。

 試験には合格したのだが、その合格をもっとも喜んでくれたはずのひいちゃんはもうこの世にはいない。


 いない。


 後妻さんの元旦那が運転するバイクが、対向から全速力で父親と後妻さんとひいちゃんとが乗った乗用車に突っ込んできた。父親が運転していたこの乗用車はこのバイクを避けようとして歩道に乗り上げ、通行人の親子を撥ね飛ばして暴走し、そのまま池に突っ込んだ。バイクはガードレールに突っ込んで止まり、元旦那は宙に放り投げられてからアスファルトに叩きつけられて首の骨を折って死亡した。あの子は悪くない。現在の俺は、ショルダーバッグに明日までが提出期限の『大学院入学手続』の書類を入れて、ベンチに腰掛けて、乗用車が飛び込んだ池を眺めている。乗用車自体は事故発生から数時間後に引き揚げられたが、三人とも助からなかった。


 俺は知らぬ間に、被害者かつ加害者の親族となっていたのである。


 葬式の最中、涙ひとつ流せなかった。

 自分の父親と後妻さんとひいちゃんがもう二度と喜び怒り泣き笑うことがないのだと納得できたのは、火葬場で焼かれて骨になってしまってからだ。もう確実に動かない。動き出したらホラーだ。あの子は悪くない。泣かない俺の姿を見て、周りはひそひそと「頭がおかしくなってしまった」と噂した。聞こえている。もしここで泣き喚こうものなら、人は「気が狂ってしまった」とでも言うだろう。どうとでも言えばいい。悲しみは次の日からどっと押し寄せてくる。人間的な感情は家族の死とともに亡くなってはいなかった。


 自身もつらいだろうに、血のつながりのない俺を迎え入れてくれた母方の――後妻さんのご両親で、俺から見た書類上の祖父母には感謝してもしきれない。後妻さんとは、父親とより俺とのほうが歳が近かっただけに新しい母親という感覚は薄かった。かといって姉のような距離感で接するのは難しい。あの子は悪くない。どれほど年齢が近いのだとしても書類上の母親であることには相違ないからだ。今思えば俺に対する言動や行動の一つ一つは彼女なりに息子たる俺を気遣ってくれていたものだというのに、俺ときたら作り笑いを浮かべて、生返事ばかりしていた。もっと親しくなれていたら、とは思うが、より喪失感が深まるだけか。母親とは呼べず、ずっと「後妻さん」と呼んでしまう。わかっていても直せないままだ。きっと〝母親〟という概念が希薄だから、どういった存在が〝母親〟なのかがいまいち理解できないのだと思う。


 俺の実の母親はまだ幼い頃に離婚してしまった。写真すら残っていない。男手ひとつで俺を育ててくれていたのに、急に「再婚したから」と言って後妻さんとその連れ子を紹介してくれたのは今から一年前のことだ。どこで知り合ったのかまでは興味がないので聞いていない。後妻さんの連れ子が、ひいちゃんだった。一二三ひふみちゃんだからひいちゃん。突拍子もなく現れた、五歳のかわいいかわいい妹だ。


 ひいちゃんは俺にすぐ懐いてくれた。なんだかんだと俺を頼ってくれて、本当にかわいくてかわいくて仕方なかった。あの子は悪くない。勉強の合間によく公園へ遊びに行った。あの子は悪くない。近所の人からも「実の兄妹みたいだ」ともてはやされていた。全て過去形だ。あの日々は戻ってこない。この世界の科学技術はまだ、人間を蘇生するまでには進歩していないからだ。どれだけ悔やんでも悔やみきれない。


 ひいちゃんの誕生日に俺が贈ったうさぎのぬいぐるみは棺に入れなかった。燃やしてしまえば大事な思い出までもがなくなってしまうような気がして、斎場に持っていかなかったのだ。しかし、生前のひいちゃんがとっても大切にしていたものでもあるので、魂と共に天国へ送ったほうがよかったかもしれない。むしろ『大事な思い出がなくなってしまうような』というのは後付けの理由であって『当日にうさぎのぬいぐるみを持っていこうという考えが浮かばなかった』のほうが正しいだろうか。いずれにせよ、ひいちゃんはお骨となりうさぎのぬいぐるみは無事に仏壇へ飾られている。


 水面を見つめながら考える。


 俺の人生はとっくのとうに存在していなかったのかもしれない。全部、他人の期待に応えるための人生だった。他人が「こうしたほうがいい」と推奨した事柄を、完璧にこなしてしまっていただけだ。俺はただ、従っていた。責任の所在は他人にある。他人の言葉に従って、結果を出せてしまう能力を持ってしまっていた。


 大学院への入学を躊躇っているのは、この進学に関しても「参宮くんは優秀だから」と教授がおっしゃってくれたから試験を受けたまでで、俺自身に特にやりたいことがあるわけではないからだ。試験を受けたら合格してしまった。ただそれだけの話だ。辞退して、俺ではない他人が、この分野を極めたい人間が進むべき道ではないか。俺は、今からでも就職先を探して、働いたほうがいいのではないかと思う。大学院に通うのも無料ではないのだから。住まわせてもらえるだけでもありがたいのに、祖父母に迷惑はかけられない。それに、大学院は今通わなくともいい。働いて、どうしてもやりたいことが見つかったときに研究者の道へ進めばいい。


 やりたいことって、なんだろう。


「「わからない」」


 異口同音に言葉が重なって、俺は振り向いた。そこにはビキニ姿の女性が立っている。……?


「そこのオス」


 どこかで見覚えのある顔だ。どこだかは正確に思い出せない。もっと女性に興味を持っておけば、パッと名前が浮かび上がりそうな抜群のスタイルの良さ。池の近くではあるが、この池は泳げない。スワンボートやカヌーは貸し出しているが、泳いで遊ぶような場所ではないから水着なのはおかしい。しかも裸足だ。謎の女性は自分の服装を気にも留めずに、胸を揺らしながら俺に近づいてきた。俺の頬を両手で挟むと、唇を重ねてくる。


「!?」


 無理矢理に舌をねじ込まれて、驚いた俺は思いっきり女性を突き飛ばしてしまった。女性は尻餅をついて「なるほどな」と舌なめずりしている。今のうちにこの痴女から逃げ出そうと、ベンチから立ち上がって、落ちていた雑誌に足を引っ掛けて「あっ!」転けた。


「あ……?」


 雑誌の表紙が視界に入って、俺は自分の目を疑う。雑誌を引き寄せて、その表紙の女性と痴女とを見比べた。同じ格好、同じ目鼻立ち。同一人物……? 違う。この女性はひいちゃんと見ていた音楽番組に出演していた。アイドルの子だ。こんな場所にいるはずがない。万が一、いるのだとしても、こんな格好で歩き回るなんて非常識だ。


「我はアンゴルモア。タクミよ。我と手を組み、人類を滅ぼさないか?」


 痴女は立ち上がり、俺に綺麗な右手を差し出して、そんな蠱惑的なセリフを吐き出した。続けて「地球上の全生命を滅し、新世界のアダムとイヴになろう」と高らかに謳い上げる。


「いいな、それ」

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