3.ハンネとリュリュ、トーマスについて噂す
「はあぁぁぁぁ」
領主館内の廊下を歩いていると、大きなため息が聞こえてきた。
もはや誰だろう? とため息の主を探そうとも思わない。
ハンネは眉を寄せ、聞こえてきた方角をトボトボ歩いて行く男を足早に追いかけた。
まったくこの男の、この大きすぎるため息を聞くのは果たして何回目であろうか? どちらにせよ、聞いていていい気分になる類のものではない。
「ちょっと、マッケネン卿。その盛大なため息は、いつになったら止められるのかしら? レーゲンブルトに帰ってきてからこっち、
問題山積のカーリン・オルグレン嬢を毒のような家族から引き離すためにレーゲンブルトにやってきたハンネ・ベントソンは、帝都からレーゲンブルトまでの長い道中において、護衛であったリュリュ・マッケネン卿とすっかり打ち解けて、いやまくだけた会話をする間柄である。
普段においてマッケネンは、アカデミーを受験できるほどの頭の良さをひけらかすこともない、温厚で素直でさっぱりした性格だというのがハンネの評であったのだが。
「いつからそんなに鬱陶しいため息をつくようになったのかしら? 騎士様なら不安は剣で払ってきなさいよ。相手がいないなら、外壁周りでも走ってきたら?」
厳しく言ってしまうのは、やはり三人の兄たちが全員騎士であるせいだろうか。自分でも少々言い過ぎたと思い、ハンネは取りなすように尋ねた。
「いよいよ副官に任命されて昇進間近だから、何か不安でもあるの? 前任者にちゃんと引き継ぎしてもらえないとか?」
レーゲンブルト騎士団には、副官が二人いる。一人はハンネの兄でもあるカール・ベントソン、もう一人は騎士団の重鎮パシリコ・ライル卿。だがパシリコは年齢のことや、持病の腰痛が悪化していることもあって、いよいよ今年いっぱいをもって退官することになった。その後任にマッケネンが就任する予定なのだ。
「いや、ライル卿はちゃんと教えてくれてるんだ。騎士団については何の問題もない」
「あら、仕事で問題がないのなら……。えーと、そうね。彼女さんから別れのお手紙でも来た?」
「彼女? 誰の?」
「貴方のよ。当然」
「俺? 俺だって? 俺に彼女なんていないよ」
「あら、そうなの? だって、貴方みたいにため息ついて、うかない顔してる騎士って、たいがいそうじゃない?
新年の帝都において出会い、そういう仲になっても、遠方へと赴任する騎士たちの多くは遠距離恋愛となり、多くがそこで互いの愛情を試される。別れる者と結婚にまで至る者は半々ほどであろうか。
ちなみに先年結婚したハンネの二人の兄のうち、カールは妻のヤーデを帝都に残しており(これはヤーデが実家を切り盛りする必要があるという事情もあるが)、アルベルトの妻は夫と離れることを寂しがって、とうとう今年、レーゲンブルトにやって来た。彼女が来る前に事情を聞いていたハンネがレーゲンブルトでの住居を探してやった縁もあって、今も時々会いに行ったりしている。
アルベルトは無口な兄ではあるが、妻との仲は至極良好で、昨年末には息子も生まれている。
「じゃあ、なに? あ、帝都の弟さんが反抗期とか?」
「まさか。アイツは至って真面目に勉学に励んでいるさ。たまに息抜きに友達と飲みにでも行けといってるが、俺と違って堅物でね」
「じゃあ、どうしてそんなにながーーいため息ばかりついてるのよ? まるで『俺は悩んでいるんです。誰か話を聞いてくれー』って言わんばかりの」
「そういうつもりは……いや、すまない。ハンネ嬢。その、ちょっと悩みというか……まぁ……大したことじゃないんだが。うん、どうも、すまない」
「意味深な素振りで、無意味な謝罪を繰り返さないで頂戴。まったく、奥歯にアスパラガスのかけらでも挟まったような、歯切れの悪い返答ね」
小気味よいハンネの受け答えに、マッケネンはしばし圧倒されたのか、ボンヤリ立ち尽くす。ややあって、苦笑した。
「いやぁ、ハンネ嬢のようにポンポンと洒落た文句が出れば、ちょっとはやり込めることもできるんだろうがなぁ」
「やり込めるって、誰を?」
「……トーマスさ。トーマス・ビョルネ」
「トーマス・ビョルネ? あぁ……そういえば、貴方、やたら彼とつるんでいるわね」
「冗談じゃない! つるんでるとか、そんなつもりは全くない!!」
「あら、まぁ、そうなの? すっかり無二の親友だとばかり」
「恐ろしいことを言わないでくれ! どうして奴が無二の親友なんだ? 奴を無二の親友にするくらいなら、宿舎に住み着いているヤモリの方がまだいい。五年以上は顔見知りさ!」
「あらら、宿舎のヤモリ君もまさかレーゲンブルトの荒くれ者が親友だとは夢にも思わなかったでしょうねぇ」
ハンネは笑いながら、トーマスとマッケネンがつるんでいる場面を思い浮かべた。
そういえば、トーマスはいつもニコニコ笑っているが、マッケネンのほうはゲンナリした顔であったかもしれない。いつも二人でいる、という状態しか見ていなかったので、気付かなかったが。
「なんだって、そんなにトーマス・ビョルネを嫌っているの?」
「嫌ってる……というか、面倒なんだ」
「面倒?」
ハンネは聞き返して、うーんと首をかしげた。
確かにトーマス・ビョルネは少々 ―― いや、かなりの変わり者ではあるのだが、さほど人様に迷惑をかけてはいないんじゃないだろうか……? と思ってすぐにレーゲンブルトの名料理人ソニヤがプンプン怒っている姿が脳裏に浮かんだ。
「まったく! トーマス先生ときちゃ!! また勝手に鶏の卵を持っていって、妙な実験なんかに使っちゃったりしてさ!! まったく、卵の色が紫になっちゃってるんだよ。気味悪いったら!」
――― うん。面倒かけてるね。
ハンネは頷いた。
だが、疑問に思う。どうしてトーマスはマッケネンに興味を持つのであろうか?
かつてトーマスがオリヴェルの家庭教師であったとき、同僚であったケレナ・ミドヴォアは言う。
――― トーマス・ビョルネは自分の興味のあることにしか反応しませんのよ!
実際、トーマスはすれ違ってハンネが挨拶しても、ボーッと歩いていて返事をしないことが度々あった。一度、指摘するとトーマスはバツ悪そうに弁明した。
「ごめんね。僕ってばさ、興味のあるものにばっかり意識が集中するところがあってさ。ハンネ嬢を嫌ってだとかじゃないんだよ。でもまぁ失礼だよね。失礼な男だと怒ってくれていいよ」
『失礼な男』だと自分の非は認めるものの、改めるつもりはないらしい。見事なほどに自分勝手で尊大な男だ。だがハンネはこの風変わりな非常識人を嫌いになれなかった。なにせ話すと楽しい。話題が豊富だし、思ってもみない着眼点を突いてくる。それまでの常識的な物の見方を変えてくれるのだ。
だからこのときもハンネはトーマスについて少々弁護した。
「あのトーマス・ビョルネに興味を持たれるなんて……ある意味、貴方が優秀っていうことじゃないの? 貴方もアカデミーの学者先生と話すことができるなんて、嬉しいんじゃなくって?」
「最初はね。そう思って相手したのがまずかった……」
マッケネンとて、黒角馬研究班としてやって来たトーマスを、最初から邪険にしたわけではなかった。
やはりアカデミーは彼にとって憧れであり、そこで『賢者の塔』に在籍できるほどの優秀なトーマスと話すのは、騎士団生活においては得られない、ある種の知識欲を満たしてくれた。だが、段々とトーマスの行動の突飛さに気付き、やたらと距離を詰めて迫ってくる感じもあって、いまではすっかり敬遠するようになってしまったのだという。
「あらあらトーマス先生も嫌われたものねぇ。ま、学者先生なんて、どこかちょっとズレた人が多いんだし、小さい頃から本とにらめっこばっかりしていたから、人との距離感がわからないだけじゃないの?」
「そうかもしれんが……つき合ってられん」
ゲンナリとした顔で肩を落とすマッケネンを軽く慰めて、ハンネは別れた。
『ま、図抜けて頭のいい人って、勘違いされやすいものだものね』
というのが、マッケネンの愚痴に対するハンネの感想だった。
それきり彼らのことについては、ハンネが考えることはなかったのだが……。
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