2.リュリュとトーマス、初めて会った日のことを語らう

 十二年前 ―――――



***



 リュリュ・マッケネンは帝都アカデミー(正式名称:キエル=ヤーヴェ研究学術府教育機関)を受験した。

 その受験資格を得るのは簡単ではなく、マッケネンも挑戦すること三回目にしてようやく、憧れの黒地に金の箔押しがされた分厚い受験票を手にすることができた。これが合格ではない、と気を引き締めてはいたものの、やはりどこか浮かれていたのだろう。受験票を何度も鞄から取り出しては、見返すのを繰り返しているうちに、うっかり落としてしまった。あわてまくってアカデミー内をうろつき回って探していると、子供が近寄ってきて、廊下で拾ったと渡してくれたのだ。


「あ、ありがとう! ありがとう!! 君は恩人だ! ありがとう、助かった!!」


 なんてことを、おそらく拾ってくれた子に言っただろう。

 もうそのときには試験開始の時間が迫っていて、子供の顔をじっくり見る暇もなかった。

 結局、この一件で気が動転したせいか、試験会場を間違えるし、そのせいで大幅に時間が足りずにまともに問題を解答することもできず……不合格となった。



***



「お前……あのときの子供、か?」

「子供ね。まぁ、子供だったよね。そんな子供がアカデミーにいるのが不思議とも思わないくらい焦ってたね」

「いや……掃除屋の坊主か何かかと」

「はあぁぁ?? 掃除小僧と僕を間違えたの? 失礼」

「す、すまん」

「ま、君みたいなのは多かったよ。あの頃の僕、体も今より随分と小さかったしね。見た目は十歳そこらにしか見えなかったろうし」

「あ……あの時は、迷惑をかけた」

「もういいよ。どうせ今の今まで忘れてたんでしょ」

「…………」

「まぁ、僕も無駄な記憶力なんだよね。ドジなお兄ちゃんのことなんか、すぐに忘れりゃよかったのにさ」


 あきれたように自嘲するトーマスに、マッケネンは少しきまり悪そうにしながらも抗議した。


「そうだ。お前、そうだぞ。最初からそう言ってくれれば、俺だってちゃんと……」

「そーこーはー、やっぱり思い出してもらいたいところだよねぇ。ヒントなしで」

「思い出せるか、そんなこと……」


 そんな……ささいなことを思い出せるほどに、その後のマッケネンの運命は平坦なものではなかった。



***



 アカデミーに不合格となった後には、第二の人生として決めていた騎士の道へと進んだ。

 元々、近所の剣士であった人から剣術を習っていて、騎士の素質を認められていたことと、受験費用を援助してくれた叔父らに借金を返したかったこと、自分よりもおそらく頭のいい弟の学費を捻出するためもある。

 ちょうど南部での戦争が再び始まるかもしれないという情勢下で、騎士団でも志願を募っており、マッケネンはそのとき最も給金の高かったグレヴィリウス騎士団に入ることに決めた。

 後に知ったが、グレヴィリウス騎士団はそう簡単に入れるものではなく、団長代理のルーカス・ベントソンがマッケネンの異色の経歴 ―― アカデミー試験に落ちた ―― を気に入って、特別枠で取ってくれたらしい。


 その後、従騎士として地獄のような訓練の日々を送り、南部での戦争を経た頃には、自分がかつてアカデミーを目指していたことなど、はるか遠い昔の、もはや他人の出来事のようだった。


 戦場で血と泥にまみれて戦っているときは、まだいい。殺伐とした状況下で精神は昂揚し、ただ純粋に生きることを欲するだけ。

 だが戦地で感染症にかかり、一時帰休ききゅうして帝都に戻ると、マッケネンはあまりに戦地とかけ離れた安閑とした日常に戸惑った。

 平和で、の、の日々。

 それはとても貴重で、戦場にいたときには切望していたはずなのに、なぜかマッケネンを疲弊させた。

 こうした騎士や傭兵はマッケネンだけではなかったようだ。

 彼らの多くは女を抱き、大量の酒を呑み、戦場において常習化してしまったファトムなどの麻薬を服用することで、病んだ心を紛らせた。だがマッケネンの選択は、酒でも女でも薬でもなく、再び戦場へ戻ることだった。


 当時の上司であったルーカスは一度だけ止めた後、それでもかたくなに戦場へ行くことを望むマッケネンにレーゲンブルト騎士団に入ることを命じた。

 先の南部戦役における華々しい武勲によって、グレヴィリウス公爵家配下の騎士団で最強 ―― いや、帝国内においても皇府の第一騎士団にも勝るとも劣らない勇猛さで知られ、当然ながらその勇名ゆえに彼らは最前線で戦っていた。

 きっとルーカスはわかっていたのだろう。マッケネンがことを。

 自分の死亡後に出るであろう恩給を弟が受け取れるように手続きをして、マッケネンはその弟に会うこともなく、再び戦地へと向かった。

 だが結局、マッケネンは死ねなかった。

 強かったからではない。ただ、臆病だったのだ。臆病だから、自分を殺そうとしてくる敵を蹴散らし、首を刎ねるしかなかった。


 休戦協定がまとまり、いよいよ帝都へと戻ることになったとき、マッケネンは沈んだ。

 きっと帝都に戻っても、自分はあのには戻れない。

 は、戦場で化け物となってしまった自分を追い立ててくる。

 考えるだけで息もできなくなるほどに苦しくなるマッケネンに、ヴァルナルは戦場に打ち棄てられた死体の埋葬を命じた。

 無数の血が染みこんだ土を掘っては、死体を埋める。

 何体もの、何十体もの死体を。ひたすらに。

 堀りながら心の中でヴァルナルの偽善をわらった。

 何の意味もない、馬鹿げた行為だと思った。

 だが、気がつくとマッケネンは掘りながら泣いていた。静かに泣き続けた。マッケネンだけではなく、レーゲンブルト一の巨躯を誇るゴアンや、歴戦を経てきた長老トーケルも泣いていた。


 無数の石が連なる広大な墓地を眼下にたたずむヴァルナルの顔は、戦地で敵を屠っていた熱も失せ、ただ硬く凝り固まっていた。


「どうして戦った者たちを埋葬しようと思ったんですか?」


 マッケネンの問いに、ヴァルナルは苦く笑って言った。


「自分の心の安寧のためさ。ただの、独り善がりだ」


 その後、マッケネンはそのままレーゲンブルト騎士団に留まった。

 ヴァルナルへの憧れというよりも、きっと彼のもとであれば、自分がおかしくなることはないだろうと思ったからだ。



 そんなわけで、マッケネンにとってアカデミーを受験したときのことなど、もはや忘れ去られた神殿の、文字もこすれて読めなくなった石碑さながらに、すっかり遠い遠い日の昔話になってしまっていた。

 受験票を失くしたことはもちろん、それを拾ってくれた親切な子供の顔など、すっかり記憶から消え去っていた。



***



「……気付かなかったのは申し訳ない。あのときは ―― 」


 礼を言いかけたマッケネンを、トーマスは止めた。


「待った! そういうのはナシ!」

「は?」

「お礼しちゃったら、それで終わりでしょ? つまんないよね、それ」

「つまんないって……」

「別にお礼してもらいたかったわけじゃないんだよ。ただ、ただ、覚えててくれてるかなーって、試してただけ」


 マッケネンはまたぞろ始まったトーマスの奇妙な態度に、うんざりとため息をついた。


「覚えてなかったから、俺にいやがらせをしてきていたのか?」

「え? いやがらせ?」

「名前で呼ぶなと言っているのに、さっきだって呼んだだろうが」

「えー? そんなにイヤだったの? 僕は気に入ってるのになぁ」


 言いながらトーマスがズイと一歩近寄ってくる。

 マッケネンは思わず一歩後ろに下がった。


「お前がどう思おうが、俺は気に入ってないんだよ。だから、二度と、人前で、あの名前で呼ぶな!」

「何がそんなに気に入らないのかなー? 顔に傷のあるいかつい騎士様が『リュリュちゃん』なんて、ギャップがあっていいじゃない」

「だから、お前の感想は知らん! だいたいギャップってなんなんだ。面白がってるだけだろうが」

「やれやれ。十二年の時を超えた奇跡の再会に、なーんの感慨もないなんてね。まったく、僕もなんだってこうも期待しちゃったんだか」

「はぁ? 期待?」

「そう、期待。なんだかね、レーゲンブルトで、すっかり様変わりした君と再会したときに、君があの受験票を落とすなんていう間抜けさんだということがわかった瞬間にさ、こう……ドーンとね。ドーンときたんだ。胃の上あたりに」

「…………ただの腹痛か、食べ過ぎだろう」

「そうなのかな? ま、そういうことで、僕は君についての考察を深めたいんだよ。また来てくれる? あ、図書館の入館許可証出しとくよ」

「いらん!」

「無理しなくていーよ。僕の名前だったら、地下の閉架図書も見られるよ」

「…………ッ、いらんッ!!」


 非常にうまみのある話ではあったが、マッケネンはギリギリで断った。

 名前を知られているだけでも厄介であるのに、この上頼み事をきいてもらって、弱みを握られるのは勘弁したい。いまだに何を考えているのか理解できない相手であれば、尚更。


「なんだよもー。意固地だなー」


 トーマスは笑いながら言って、ヒラヒラと手を振る。自分で招いておいて、さっさと出て行けというこの傍若無人ぶり。

 マッケネンはため息をついて扉に向かいかけたが、把手とってに手をかけたところで振り返った。


 遅くなったが、やはり言うべきだろう。


「あの時は本当に助かった。もっと早くに礼を言うべきだったな。今更かもしれないが、ありがとう」


 マッケネンは十二年越しの感謝を伝えたが、トーマスは振り返らず返事もない。

 軽く肩をすくめてマッケネンは部屋を出た。

 パタン、と扉が閉まった途端に、トーマスの大きなため息がどんより漂う。


「まったく覚えてない、ねぇ。ほんっと、つれないなー。こっちは忙しい研究の合間にも忘れてなかったっていうのにさー」


 トーマスは少しばかり寂しさをにじませたが、口元にはいつもの不敵な笑みが浮かんだ。


「ま、これで終わりにするつもりもないし。今後も楽しませてもらうことにするよ、リュリュちゃん」


 囁いたトーマスの声が聞こえたのだろうか。

 図書館に戻り、目当ての本に手を伸ばすマッケネンの背筋をゾクリと悪寒が這った。

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