第四百三十話 お茶騒動(3)

 幸いにも紅茶を飲み下したのはエーリクだけであった。

 カーリンは茶に口をつけてはいたが、すんででオヅマがマリーのカップを払ったのに驚いて、飲むことはしていなかった。ただ、少しだけ唇に茶の触れた部分にピリピリとした痒みのような感覚が残ったが、それも半日の間に消えた。

 他にもテリィが口に含んだものの、オヅマの怒鳴り声に驚いて吹き出してしまい、彼も幸い飲んではいなかった。カーリンと同じようなピリピリした痛みが口中に残り、こちらは大騒ぎして、一刻近く口をすすぐのを繰り返した。

 彼らはひとまず胃腸薬を渡されたが、その後の診察においても体調に問題はないとされた。


 今回、お茶を淹れたロジオーノは当然疑われたのだが、彼はもちろん毒など入れていない。

 それは一緒にお茶の用意をしていたミーナも証言した。


「ロジオーノがお茶を淹れているときに、おかしな動作をしたことは一度もありませんでした。何かを混ぜるような、そんな素振りをしていたらすぐに気付いたはずです。私たちは話しながら用意をしていたんですから」 


 ロジオーノは毅然と自分の身の潔白を証言してくれるミーナが有難くて、目を潤ませながらも必死に訴えた。


「奥様の仰言る通りです! 本当に、本当に、何もおかしなものなんて入れた覚えはないんです!」


 彼に動機もなく、疑わしき行動もないとわかっても、すぐに解放されるわけではない。ひとまず自室で謹慎させたあとに、詳しい捜査が行われた。


 ロジオーノの行動に問題がないとすれば、疑惑を向けられるのはカップやポットなどの食器類と、茶葉だ。

 サビエルはマッケネンと一緒にお茶の用意をする小部屋に向かうと、いつもの茶葉の入った白い陶器のキャニスターを取った。

 蓋を開けて、ムッと顔をしかめる。


「なんで……まさか、腐ってるなんて……」


 サビエルは困惑したようにつぶやいた。

 マッケネンはすぐさま蓋を閉めると、サビエルからキャニスターを取り上げる。


「ひとまず領主様に判断いただく。行くぞ」


 そのままヴァルナルの執務室に向かいかけて、途中でエーリクの診察を終えたロビン・ビョルネ医師に出くわした。


「ビョルネ先生、エーリク公子の具合はいかがですか?」

「あまりよくありません。発熱と、激しい頭痛。手足が少し痺れているようです」

「毒なのですか?」


 マッケネンが尋ねると、ビョルネ医師は「おそらく……」と頷いてから、難しい顔になった。


「解毒薬を処方しようにも、毒が特定できないと……。毒の特定は難しいのです。毒そのものがあれば別ですが……」


 すぐさまサビエルがマッケネンの持っていたキャニスターを奪わんばかりにして、ビョルネ医師に差し出した。


「これ! これに毒が入っているのかもしれません」

「……見せてください」


 ビョルネ医師は神妙な表情で蓋を開けたものの、そこから漏れ出た臭気にうっと呻いてすぐさま閉じた。


「なんだこれは……ひどく腐っているようですが」

「そうなんです。僕が昨日淹れたときにはそんなことなかったのに」


 サビエルも不可解な顔で言い立てる。

 問題の茶葉の入ったキャニスターを中心に、三人が黙りこんでいるところにヒョイと手が伸びてきて、ビョルネ医師の持っていたそれを取り上げた。


「あっ! トーマス! なにをするんです?!」


 ビョルネ医師が抗議するのもお構いなしに、トーマスは取り上げたキャニスターの蓋を開けると、中から昇ってきた臭気に「おぇ」と嘔吐えづく真似をしてすぐに閉じた。


「こりゃまた、とんでもないのが混ざっちゃったもんだねぇ。まさかこれでお茶淹れちゃったりしてないよね?」


 相変わらずの脳天気な様子で尋ねてこられて、いつもは先生だからとへりくだっているサビエルも青筋を浮かべた。


「淹れてしまって、大変なことになっているんですよ! 今!!」

「えっ? まさか。ホントに?」


 さすがのトーマスも、普段は穏健なサビエルの切迫した声に顔色を変えた。


「まさかと思うけど、誰か死んだとか?」


 双子の兄の飛躍した問いかけに、ロビン・ビョルネ医師が怒鳴りつける。


「不謹慎なことを軽々しく言うんじゃない! 今、治療中だ」

「治療中……ね」


 トーマスはキャニスターを軽く振ってから、興奮気味な弟に静かに問いかけた。


「お前、これどういうことだと思う?」

「どういう……って、腐敗しているのだろう。管理に問題があったのか。詳しく調べてみないと分からないが」

「まぁ、当たらずとも遠からずといったところかな。それで患者は? 重症なのか? 解毒薬のアテは?」


 トーマスに次々問われて、ビョルネ医師はムッとなって言い返した。


「そんなすぐに対応できるわけないだろう! 今、知ったところなんだぞ」

「そりゃそうだ。でも、僕は今知って、もうだいたいわかってるぞ。どういう薬が必要かもな。どうする? 医者の面子をとるか、それとも患者の治療を優先するか?」


 トーマスがいつになく冷静な声で問いかける。


 ひんやりとした、名状しがたい雰囲気が流れた。

 真面目でお堅いロビンと、適当でいいかげんなトーマスの兄弟ケンカは、もはやレーゲンブルトにおいて日常光景と化していたのだが、そのときの二人の立場は微妙に違っていた。


 ロビンはグッと拳を握りしめると、険しい顔で言った。


「……当然、患者の治療だ」


 その言葉にトーマスは満足そうに頷く。


「じゃあ、さっさと作ろう。あ、リュ……マッケネン卿。これ、借りていきますね」


 白いキャニスターを持ったまま去って行こうとするトーマスを、それまで成り行きを見ていたマッケネンはあわてて引き止めた。


「おい、ちょっと待て! その茶葉については、先に領主様に」

「何が起きたのか知らないけど、この場合、最優先されるのは何かってことぐらい、賢明なる騎士様であれば、おわかりだと思いますけど?」


 研究や読書中以外はフザけてばかりいるトーマスは、このときもどこか一癖ある言い回しではあったものの、その顔は真剣そのものだった。

 マッケネンは仕方なく手を下げ、軽く顎をしゃくった。

 トーマスはニコッと笑い、そのまま弟と廊下を足早に歩き去った。


 数時間後にはトーマスとロビンによって解毒薬が作られ、それをんだエーリクはひとまず小康状態となった。


 最終的にこのキャニスターの中の茶葉が腐ってしまったのは、微小体びしょうたい(*細菌、ウイルス等の総称)によるものだとされた。

 その経緯について、まず証言したのはロビン・ビョルネだった。

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