第四百二十九話 お茶騒動(2)

 ロジオーノが淹れてくれたお茶にまず最初に口をつけたのは、普段であればさほどに茶を飲むこともないエーリクだった。

 彼は祭りで輪舞の輪に加わることになり、慣れない踊りに悪戦苦闘して疲れて喉も渇いていたし、その下手な踊りを皆からからかわれて、多少気分を害してもいた。

 それでも普段から無口で、仏頂面の彼であるので、他方から見て彼の心情は気付かれることなく、まだ茶がそれぞれに配られている段階であるのに、早々に彼が飲み始めたことも知られることはなかった。

 一口含んだときに、エーリクは一瞬ひんやりとしたものを感じたという。

「ミントでも入っているのかと思った」と。

 だが大して気にも留めずにそのまま飲み下してから、しばらくすると、舌から喉にかけてピリピリとした刺激がきて……




 一方、オヅマはロジオーノが用意するなり、最初のお茶を取り上げて、飲もうとしたところに、マティアスがいつものごとく小言をふっかけてきた。


「オヅマ! 小公爵様にまず持っていくべきだろうが。お前が先に飲むな」

「うるせぇなぁ。俺はお前らと違って最後まで踊ってたんだぞ。喉だってお前らの倍渇いてんだ。先に飲む資格はあるだろ」

「お前、踊ったあとに女からアーモンドミルクをもらっていただろうが!」

「なーんだよ。お前も欲しかったなら、言えばいいだろ」

「馬鹿を言え! あのような場所で見知らぬ女から饗応など受けるわけにはいかん!」

「大袈裟な。饗応って何だよ。ただのアーモンドミルクで。見知らぬ女って、ただの花売り娘だろ。なにビビってんだよ」


 相変わらずのやり取りの間に、ロジオーノは近くまで来て待っていたエーリクにポットから注いだお茶を渡した。このとき、ロジオーノはエーリクが毒見として飲むのかと思ったらしい。甚だ形骸化したものではあるが、近侍らによる毒見当番はここレーゲンブルトにおいても続いていたから。

 そのロジオーノの考えを読んだかのように、オヅマがしゃあしゃあとした口調でマティアスに言い訳する。 


「あ、そうだ。毒見だ。毒見毒見」


 言いながらオヅマはクイッとあおってゴクリと飲み下した。


「なにが毒見だ! そういうときばっかり適当なことを言って、そもそも……」


 マティアスはここのところ、論文がうまく運ばず鬱屈が溜まっていたのか、それともエーリクに次いで踊りが下手だと、オヅマにからかわれた腹いせなのか、なかなか小言をやめようとしない。


 同じ年の二人のやり取りを見て、


「マティもお兄ちゃんも、いつもケンカしてるわりには、妙に仲がいいっていうか、息が合ってるのよね」


と、マリーは半ばあきれつつカップを受け取り、


「マティアス公子とオヅマ公子はケンカしてて通常なんですよ」


と、カーリンも溜息まじりにお茶のカップを持ち上げ、


「駄目だわ。私、お茶が飲めないわ。思わず噴いてしまいそう。前もお二人が……」


と、ティアは以前にもあった二人の滑稽なやり取りを思い出したのか、クスクスと笑い出す。


「まったく他人事なんだからね、お嬢様方は。僕はこの二人の調整役で、どれだけ苦心惨憺しているか……」


 アドリアンは大袈裟に嘆いてみせてから、カップに口をつけようとしたが ―――


「キャッ!」


 いきなり目の前でオヅマがマリーの持っていたカップを払った。

 テーブルに落ちたカップがガシャリと割れる。

 何の真似だ、とアドリアンが止める間もなく、オヅマは今度はアドリアンの持っていたカップを取り上げ、床に叩きつけた。


「全員、飲むな!」


 鋭く叫ぶオヅマの目線の先で、既に飲み下して違和感に気付いていたエーリクが、口を押さえて苦しげに顔を歪める。


「エーリクさん……飲んだのか?」


 オヅマが尋ねると、エーリクは頷いてから、ガクリと膝をついた。

 真っ青な顔のエーリクに、近くに座っていたカーリンがあわてて駆け寄る。


「エーリクさん、しっかりしてください!」


 倒れたエーリクに呼びかけるカーリンの背後で、テリィがあわあわと焦った様子でうろたえた。


「ど、どど、どうしよう! 僕、僕飲んじゃった! 死んじゃう! 死んじゃうよぉ!」


 泣きそうに……いや、もう既に涙目になって、テリィは喚き立てる。


「落ち着け、テリィ。君、さっき吹き出していたろうが」


 アドリアンはテリィの泣きじゃくる声にイライラして言った。


「そうだよ、テリィ。きっと大丈夫。落ち着いて」


 テリィの隣に座っていたオリヴェルがなだめ、ティアとマリーは二人で手を握り合って固まっている。

 すっかり混乱した場で、素早く指示を下したのはオヅマだった。


「サビエル、ビョルネ先生を呼んでこい! ナンヌは執事! マティアス、ロジオーノを拘束しろ! アドル、領主様に……」


 言いかけたときに、ロジオーノがよろけて尻もちをつくと、呆然とつぶやいた。


「あ、あ……奥様が……領主様にもお茶、を……」


 オヅマは息を呑んだ。


「アドル、エーリクさん頼む!」

「待て、オヅマ! 君また髪が……」


 アドリアンの制止も聞かずに、オヅマは部屋から飛び出すと、本棟にある領主の執務室へと全速力で向かう。

 走りながら、いつもならば忌避するの記憶を必死で手繰り寄せた。



 ―――― クランツ男爵は、私の代わりに毒をけて……死んだのです……



 はそう言っていた。

 昔の話として語っていた。

 昔?

 いつのことだ?

 彼がまだ子供の頃だったのか?

 わからない。

 はっきりしない。

 こういうときばかり、肝心なことが出てこない。


 いずれにしろ、今ではないはずだ。

 において、こんなことはなのだから。

 のクランツ男爵は、ミーナと結婚することもなかった。

 ミーナの茶を飲むこともなかった。

 だから今が、その時であるはずがない。


 だが、オヅマがここに来たことによって、もう既には大きく外れてしまった。

 がすべての物事を指し示すわけではない。

 すべてのでの事が、必ず起きうるとも約束されず、同時に将来起きるはずのことが、今になることすらも否定できない。


 走りながらゾワリとした悪寒が背中を這ったのは、毒による作用ばかりではない。

 今更ながらに、自分の行為の代償があまりに大きな変化を及ぼすものであったと気付いたからだ。

 あの日、オヅマがした選択 ―― 母が絞首刑にならぬように、父を殺さないで済むようにと、ただそれだけを願ったその選択が、知らぬ間に多くの人々の運命を変えることになっていたのだとしたら……?

 いや、そもそもただのであるのならば、それは何も起きていないに等しいはずだ……。


 だんだんと思考が無窮むきゅうの領域に入っていきそうで、オヅマはを払った。


 ヴァルナルが無事であればいい。

 彼さえ無事なら、母もマリーも幸せなのだ。

 皆が幸せでいてくれるはずなのだ。

 だから彼が享けるかもしれぬ毒をも飲み干すつもりで、オヅマはあの禍々しい清毒せいどくを再び体に入れたのだから。


 ようやく執務室の扉が見えると、オヅマは走る速度を上げ、ほとんど蹴破るようにして中に入った。


 ソファに座ってミーナと談笑していたヴァルナルは、オヅマが乱暴に扉を開けて入ってきたときには、既に尋常でない気配を感じ取って、ミーナを庇うように立っていた。

 しかし入ってきたのがオヅマとわかると、キョトンとして尋ねる。


「……オヅマ、どうした?」


 オヅマは激しく肩を上下させ、よろけつつヴァルナルの前まで来て、かすれた声で尋ね返した。


「……無事ですか?」

「なに?」

「お茶……飲んで……おかしな、味……」

「お茶?」


 ヴァルナルはテーブルの上で既に空になったカップを見る。それからミーナが持っていたカップをすぐさま取り上げて、テーブル上のソーサに置いた。


「私たちは大丈夫だ。いつもと変わりない。それよりもお前……その髪……」


 ヴァルナルは色を変えたオヅマの髪に困惑しつつも、それよりもオヅマの切羽詰まった様子にただならぬものを感じて、鋭く尋ねた。


「いったい、なにがあった?」

「ロジオーノが淹れた茶が……毒が入ってたのか、エーリクさんが飲んで……具合が悪くなって……アドルは、無事です。マリーとオリヴェルも……他も……たぶん、大丈夫」


 言っている途中でオヅマもクラリと眩暈に襲われる。倒れそうになったが、かろうじて四つん這いになって踏みとどまった。


「オヅマ!」


 ミーナがあわてて駆け寄った。「ひどい汗。いったい……」


「すぐにビョルネ医師に……」


 ヴァルナルが扉に向かおうとするのを、オヅマは止めた。


「俺は大丈夫です。少し休めば……大して飲んでないから。それよりエーリクさんを……早く……」


 ヴァルナルは頷くと、ミーナに目配せしてから出て行った。

 ミーナは手ぬぐいでオヅマの汗を拭いてやったが、その布が変色した髪と同じように、青紫がかった黒に染まるのを見て、息を呑んだ。それでも動揺を息子に見せてはならぬと思ったのだろう。唇をギュッと引き結ぶと、オヅマの肩をつかんだ。


「オヅマ、立てる?」


 オヅマは目の前が暗くてボンヤリしていたが、母の腕に寄りかかりながら立ち上がった。どうにか部屋を出て廊下の壁に凭れかかると、母を階段の方へと押しやる。


「俺は大丈夫だから、マリーとオリーを……二人とも驚いてるだろうから……早く、行ってやって」

「なに言ってるの、オヅマ。あなただって……」

「俺はいいから! 早く行けってば!!」


 オヅマはイライラと怒鳴りつけてから、ほとんど項垂れるようにして頭を下げた。


「頼むから……行ってやってくれって。オリーは……飲んでなくても、びっくりして、また胸が苦しくなってたら……」


 ミーナはそれでも迷っていたが、オヅマにまた強く押されて、


「とりあえず様子を見てくるわ。すぐに戻ってくるから」


と、階下へと降りていった。


 ようやく母が行って、オヅマは震える息を吐いた。

 熱い。胸の中が熱い。

 目がかすむ。


「クソ……早く、なれろ……」


 小さくつぶやいて、オヅマは自分の部屋へと歩き出した。

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