第四百二十八話 お茶騒動(1)
帰ってくるなり、子供たちはぐったりとソファに倒れ込んだ。
祭りの高揚感の中で踊っている間は元気であったのだが、領主館に戻ってくるなり、全員の気力が果てた。
「お茶が欲しいな」
アドリアンがつぶやくと、サビエルは疲れ切ってはいたものの、そこはプロの従僕としてすぐさま取りかかろうと歩き出す。だが疲労困憊のサビエルを、ミーナがやんわりと止めた。
「まぁ、サビエル。あなたにも休息が必要よ。お茶なら私が準備するから、待っていて頂戴」
「いえ、そんな。男爵夫人に、そのようなことをしていただくわけには……」
「大したことでもないわ。ちょうど旦那様にお茶を差し上げる時間ですから……ナンヌも少しそこの椅子に座っておいでなさい」
ミーナは部屋を出ると、お茶の用意をする小部屋へと向かった。
元々は食器部屋であったが、ちょっとした炊事場にもなっていて、お湯などを沸かせるように小さな
ミーナが小部屋に入ると、従僕のロジオーノが一人、椅子に腰掛けてお茶を飲んでいるところだった。入ってきたミーナに驚いて、あわてて立ち上がったものの、飲んでいたお茶がむせて盛大に咳き込んだ。
「まぁまぁ」
ミーナはロジオーノの背をさすって、落ち着かせた。
「す、すみません。奥様」
「いいのよ。急に入ってきて、びっくりさせてしまったわね。お茶を淹れる練習をしていたのでしょう?」
「あ、えと……はい」
ロジオーノはおずおずと頷いた。
従僕や女中がたまに、ほんのたまーに、こうして暇を見つけてお茶を飲んでいることはあったが、多くの場合、それが見つかったときの言い訳は「お茶を淹れる練習」であった。そこはミーナも商家勤めをしてきた経験もあり、この領主館で働いていた仲間であるので、仕事の間のちょっとした休息として大目に見ていた。
「じゃあ、腕前を見せていただこうかしら。ロジオーノ。小公爵様たちが帰っていらして、すっかり疲れていらっしゃるの。あなた、淹れてもらえる?」
「あ、はい。すぐにご用意いたします!」
ロジオーノはすぐさま用意にとりかかった。お湯を沸かして、トレイにカップやらを置いていく。オーク材の古びた戸棚から素焼きの
「あぁ、ロジオーノ。それではないわ。サビエルがいつも小公爵様に淹れているのは、これよ」
ミーナは少し背伸びすると、一番上の棚に置いてあった白い陶器のキャニスターを取って、ロジオーノに渡した。
クリーム色の紙に店の商標と茶葉の産地が印刷されたそのキャニスターは、いかにも帝都の有名店で売られているらしい
「すみません。いつもサビエルがしているものだから……」
「そうね。普段はサビエルが一手に引き受けてくれているから、私もとても助かっているわ。でも、今日はもうクタクタみたい」
ミーナが笑って話していると、ゾーラが呼びに来る。
「あ、奥様。領主様がお呼びです」
「あら。私も用意しないと。お湯はまだあるかしら?」
こうして小部屋から出てきた二人は、それぞれ目的の場所へと向かった。
ミーナはお盆に用意したティーセットを乗せて。
ロジオーノはワゴンに大量のカップと、いつものよりも一回り大きめのポットを乗せて。
***
ワゴンでお茶を運ぶロジオーノとすれ違ったネストリが尋ねた。
「それは? 随分と多いな」
「あ、小公爵様たちが帰っていらして、お茶をご所望なので」
「……サビエルはどうした?」
「サビエルも祭りで踊らされてクッタクタらしいですよ。奥様に申しつけられて、彼とナンヌの分も用意してます」
「…………フン、相変わらず甘いことだ」
ネストリは執事の立場上、新たな男爵夫人となったミーナに礼儀正しく振る舞っていたものの、内心では所詮下女上がりという侮蔑が抜けていなかった。
顎をしゃくってロジオーノに行くよう指示したあと、いつもと変わらぬツンと取り澄ました顔で廊下を歩いて行く。
だがその足は徐々に速くなっていった。途中で胸を押さえつけたのは、激しく鼓動する心臓の音が周囲に漏れ聞こえそうであったからだ。
◆
前夜、ネストリは『死神』からもらった赤い包みを持って、フラフラと厨房へと向かっていた。
ひとまずはそこで何かしら、小公爵を始めとする近侍らの食事に、この包みの中身を入れられる
『食事じゃなくてもいいんじゃないのか?』
そんな考えが浮かんだ途端、ネストリはかつてない自らの閃きに愉悦した。
キョロキョロと見回して、すぐさま作業台の棚の隅に置かれた白いキャニスターが目に飛び込んでくる。
ネストリはあきれたように鼻で嗤った。
本来、茶葉の入ったキャニスターは作業台の対面にある、茶葉専用の戸棚に置くべきであるのに、まだレーゲンブルトに来て間もない
こんなところに迂闊に置いておく方が悪いのだ……と、自らの行為の正当性を一つ見つけて、罪悪感を減らしていく。
ネストリはその白いキャニスターの蓋を取った。
途端に茶葉のよい香りがたつ。
ゆっくりと深呼吸して香りを吸い込んでから、ネストリは震える手で赤い包みを開いて、さらさらとした砂のようなものをキャニスターの中に入れた。
すぐに蓋をして、無自覚に小さくつぶやく。
「……これでいい」
ネストリの中では完璧な方法だった。
なにも自分が直接、小公爵や近侍らの食事にこの毒らしきモノ ―― 『死神』は毒ではないと言っていた ―― を混ぜる必要はない。
誰かが、自分以外の誰かが、与えればいいのだ。
茶葉の中に混ぜるということを考えたとき、ネストリの脳裏に浮かんだのは小公爵付きの従僕サビエルのことだった。
それまでサビエルに対するネストリの認識は、年下のちょっとばかり気取った従僕、というものだった。
そこには軽い嫉妬も入っていたろう。
たとえ公爵邸において冷遇されている小公爵付きとはいえ、アールリンデンで働けること自体、まだしも芽がある。それどころか、このまま小公爵が公爵となれば、彼は本邸における執事長となりうる可能性もあるのだ。
そう考えるとネストリの嫉妬はムクムクと膨れ上がり、サビエルを陥れることに一抹の罪悪感も感じずに済んだ。
小公爵を始めとする近侍らは、午前あるいは午後の勉強合間に喫茶する。そのとき必ず茶を淹れるのはサビエルだった。しかもこのときばかりは、近侍らも例の古くさい習慣に囚われずに、それぞれに飲む。全員が同時に口にする可能性は高い。
ネストリはもううっとりと微笑んでいた。
これで疑われるのはサビエルになる。
自分は大袈裟に驚いていればいいだけだ。
自らの思いつきに、ネストリは内心で自画自賛しながら、そっと小部屋を出た。
キャニスターを作業台の上に置きっぱなしにして……
◆
そうして
逃げるように執事室に戻ってくるなり、ネストリは扉に凭れこんでズルズルとくずおれた。
背中から噴き出た冷や汗が寒く、一気に震えがくる。
まさかサビエルでなくロジオーノが淹れるなど、思ってもみなかった。
だが、仕方ない。
彼のせいでなくとも、不運に巻き込まれることはあることだ。
今の自分が『死神』に目をつけられたように。
「……知らん……俺は……知らん。俺は、俺の……せいじゃない。俺のせいじゃない……俺の……」
何度もつぶやいて、ネストリは必死に正常を保とうとした。
もはやそれは自分への暗示に近かった。
いっそそのまま狂ってしまったのならば、ネストリはある意味自由になれたのかもしれない。だが彼が狂気に沈むのを引き留めるかのように、控えめなノックの音が響く。
「ネストリさん、あなた……大丈夫?」
小さく聞こえてきたケレナの声に、ネストリはバッと扉を開けると、すぐさま彼女を中に引き入れた。
「キャッ」
ケレナはいきなり引きずりこまれるように中に入るなり、自分を抱き寄せたネストリに驚いた。
夜の逢瀬であればともかく、昼日中にこうした熱情も露わな行為をするような人でない。日頃、職務においては厳格で真面目な彼には珍しすぎる……というよりも、初めてのことだった。
ケレナは戸惑いつつ、ネストリを見上げて更に驚いた。
「まぁ、あなた……どうしたというの? 真っ青じゃないの。やっぱり具合がよくないんじゃ……」
「見ていたのか?」
ひどく切羽詰まった声でネストリが尋ねる。
ケレナは首を傾げた。
「見ていたって……なにを?」
「…………どうしてここに?」
ネストリがケレナの鈍感な反応にやや苛立ったように問いかけると、ケレナは当惑しながらも素直に答えた。
「それはあなたが廊下をひどく急いでいて、なんだか具合が悪そうに見えたから、気になったのよ。あなたは熱が出ていても、職務中には我慢して平然としているのに、ひどくつらそうで……」
「あぁ……ケレナ」
ネストリは強くケレナを抱きしめると、そのまま唇を重ねた。貪るように口を吸い、ケレナの中に救いを求めた。
一方のケレナはいきなりの接吻に何が起こっているのかわからなかった。
だが舌を絡め合ううちに徐々に恍惚としてきて、何も考えたくなくなった。
互いに強く抱きしめ合って、ケレナがネストリのボタンに手をかけようとしたとき、激しいノックが二人の陶酔を破った。
「執事様!! ネストリさん! 大変です!! エーリク公子が倒れられたんです!」
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