第四百二十一話 駒(2)

「いえ、確かにオヅマ少年の才能に惚れ込んで……という部分があるのは否めませんが、それ以上に男爵においては、オヅマ少年の母親のことがお気に召したようですよ。以前に報告致しました、あの不行状を働いた行政官 ―― ギョルムでしたか……あの件においても、相当な怒りようでしたから」


 その名前から連想される一人を思い浮かべて、ランヴァルトはあきれたように吐息をもらした。


「ソフォルのゆかりの者か。どうせ彼奴きゃつと大差ない下卑げびた人品であったのだろう。ファトム(*覚醒作用のある葉巻)程度で狂うとは……情けないことよ」


 ギョルムの伯父にあたるソフォル伯爵は、地位はただの侍従長であるが、皇帝からの信任厚く、いまや宮廷内において隠然いんぜんとした権力を持つに至っている。ベネディクトは頷いてから、表向きの報告書には書いていなかった事情について語った。


「確かにギョルムの罪はファトム使用による職務懈怠けたいですが、より重大であったのは、彼が暴行を働いたことです。先程も申した男爵の実の息子と、そのオヅマ少年の母親に対して」

下衆ゲスに官服を着せたところで、行いは変わらぬか」


 嫌悪も露わなランヴァルトの言葉に、ベネディクトは頷いた。


「幸い、済みましたが、クランツ男爵の怒りは相当で。当初は事を荒立てることをしたくなかったラナハン卿にも、かなり怒り心頭のご様子でした。よほどにその女を大事に思っておったのでしょう。その後、結婚されることになって、私も式に招かれましたが、ちょうど帝都での黒角馬くろつのうまの増産施設の件で、帝都とレーゲンブルトを往還することが多く、辞退致しました」

「成程。つまり卿が見るところ、クランツ男爵が身分卑しき女を妻として迎えたのは、才ある息子欲しさだけではなく、その女自身にも執着があったということだな。存外、質朴しつぼくなようでいて、男爵も抜け目ないようだ」


 ランヴァルトがたのしげに笑うのを見て、ベネディクトも「確かに」と同意する。それからふと気になって尋ねた。


「ところでどうしてクランツ男爵の息子のことを?」

「あぁ。に聞いてな。クランツ男爵の新たな息子となった少年が、シモンと似ていると」

「シモン公子に?」


 ベネディクトはすぐさま頭の中で、オヅマとシモンの姿を思い浮かべ、あぁ……と得心した。


「確かに……似ていると言われれば、そうですね。疱瘡ほうそうにかかる前のシモン様を彷彿とさせる姿ではあります。それに、そうですね。少々生意気なところが、確かにシモン様の、その……な性格に通ずるところがあるやもしれません」


 ベネディクトは慎重に言葉を選んだが、ランヴァルトはにべなく言い捨てた。


「あれは豪放ではなく、無能無策ゆえの空回りというのだ」

「……厳しゅうございます、閣下」


 ベネディクトは苦笑いであったが、否定もしなかった。

 ランヴァルトが軽く手を上げる。会話の終了を告げる合図であった。

 ベネディクトは立ち上がると、再び恭しく礼をして立ち去ろうとしたが、扉を開いたところで呼び止められた。


「そういえば、アンブロシュ卿。そのクランツ男爵の新たな妻の名前は知っているか?」

「は? 確か……ミーナ、という名であったと記憶しております」

「…………そうか」


 返事に少しだけ間があったが、ランヴァルトの態度に変化はない。

 ベネディクトはしばし立ち尽くして、あるじの次の言葉を待ったが、何も言われないので、再び礼をして立ち去った。


 扉がパタンと閉まると、ランヴァルトからスッと表情が消える。

 ややあって、ベネディクトが出て行った扉の斜め向かいにある扉から、ヴィンツェンツェが現れた。


「ミーナとは……さてもしき相似があったものですな」


 ヴィンツェンツェはニタリと笑って、ランヴァルトを見上げたが、主の表情は変わらなかった。

 ランヴァルトはしばらく何かの様子を窺うように沈黙して、ややあって静かに言った。


「先程の従僕、近いうちに連絡をとるであろう」

「おや。鼠でしたか」

「この前からやたらと探り回るのがいると思ったら……。ヤーヴェの水鼠カロン(*皇家の間諜の意)か、鹿の影(*グレヴィリウス家の間諜の意)か。どちらか確認せねばな」

「御意」


 ヴィンツェンツェはそれだけで主の意図を察して、早速、忠誠の厚い家臣にその仕事を任せた。



 二日後の夜、従僕は大公の第二夫人であるビルギットの使いと言ってガルデンティアを出たところで、ある女に呼び止められた。


「誰と会う気かな? 従僕殿」


 従僕はまともに応戦もできなかった。

 背後で酒焼けしたしわがれ声を聞いて振り返った次の瞬間には、自らの背を超す大女に頭を鷲掴みにされていた。


 女は従僕を悠々と片手で持ち上げ、


「畏れ多くもこのガルデンティアの中で嗅ぎ回って、大公家の秘密を盗もうとは……大胆なる盗人もいたものだ」


と、いかにも愉しげに話す。

 セピアの瞳は久しぶりの獲物に、舌舐めずりせんばかりの獰猛な狂気を帯びていた。


「あ……あぁ……」


 従僕はまさしく猛獣の前の家畜に等しかった。助けを乞う間もなく壁に叩きつけられ、気を失った。

 その後、その従僕(になりすましていた者)がどのようにして真相を話すに至ったか、仔細しさいに書くことはしない。


 最終的にヴィンツェンツェから報告を受けたランヴァルトはつぶやいた。


「鹿のほうであったか……。今頃になって元大公妃エレオノーレのことを蒸し返すとはな。彼奴きやつら、よほどにエン=グラウザを取り戻したいらしい」

「よきを手に入れて、策を練るに忙しいようでございますな」


 ヴィンツェンツェはいつものごとくはりの準備をしながら、ヒッヒッとわらった。


「やはり爺めの申す通り、あの娘の孕んだのは閣下の御子みこでありましたな。あの頃には清毒せいどくも薄まっておったのやら。自然の営みは所詮人知及ばぬ聖域。慮外りょがいなる事も起こるもの……。あの娘もようやく証を立てることができたようですな」

「…………」


 ランヴァルトは黙した。

 暗い翳りを帯びた紫紺の瞳に、苦いものがよぎる。


「さて、さて。せっかくの有難い御子様みこさまであれば、早急に試したきところでありまするが……」


 ヴィンツェンツェは不気味な笑みを貼り付かせてランヴァルトを見上げた。幾年いくとせを数えたか知れぬ老人の目は、もはや白く濁って、見えているのかどうかもわからない。


「急がずともよい」


 ランヴァルトは無表情に言った。


「仔鹿(*アドリアンのこと)の近侍となっておるのであれば、いずれ二人同時に手に入る。いらぬ手出しすれば、あちらも何かと反発してくるであろう。そのためにこそ、先々のことを考えて手を打っておるのであろうからな」


 クランツ男爵との結婚も含め、新たな息子を近侍にすること、男爵夫人となったミーナを公女の世話係として後見の役目を与えたこと。これらは既に内外に発表されていることだ。この既定事実を無視して、こちらの権利を主張すれば、公爵家側も黙ってはいない……という暗黙なる警告だ。


「グレヴィリウスと我らが争って喜ぶは皇帝ジークヴァルトと、あの出っ歯の腰巾着(*ソフォル伯爵のこと)くらいなものだろう。しかも手に入るのが、息子一人だけの話。いたずらに事をく必要はない」


 言ってから、ランヴァルトは急に襲ってきた頭痛にうっと顔をしかめた。両手で頭を押さえつけて、しばらく痛みに耐える。こめかみを強く押す親指の爪先は皮膚を破き、血が一筋、腕を伝った。


「…………最近、また痛みがしきりになってきておりますな」


 ヴィンツェンツェは香炉こうろに黒い香薬こうやくを入れると、ランヴァルトの近くに置いた。


「近きうちに再び手術を……」

「いらぬ!」


 ランヴァルトはヴィンツェンツェの言葉を遮り、長く、ゆっくりと息を吐いた。痛みが徐々に緩やかになっていく。ゴロリと寝台に横になると、スルスルと白い蛇が天蓋の柱を伝って降りてきた。

 ヴィンツェンツェは無表情に主を見ながら尋ねた。


「では、レーゲンブルトはあのままに?」

「そうだな……」


 ランヴァルトはしばしぼんやりと天蓋裏の幾何学模様を見つめてから、ポツリと言った。


「一度、確かめさせてもよいかもしれぬ。本当に使えるかどうか」

「では、またリヴァ=デルゼでも行かせましょうか?」

「いや、アレは騒ぎを作る。それよりも……」


 胸を這う蛇を撫でながら、ランヴァルトはうっすらと嗤った。


「……ちょうど面白がりそうなのがいる」

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