第四百二十一話 駒(2)
「いえ、確かにオヅマ少年の才能に惚れ込んで……という部分があるのは否めませんが、それ以上に男爵においては、オヅマ少年の母親のことがお気に召したようですよ。以前に報告致しました、あの不行状を働いた行政官 ―― ギョルムでしたか……あの件においても、相当な怒りようでしたから」
その名前から連想される一人を思い浮かべて、ランヴァルトはあきれたように吐息をもらした。
「ソフォルの
ギョルムの伯父にあたるソフォル伯爵は、地位はただの侍従長であるが、皇帝からの信任厚く、いまや宮廷内において
「確かにギョルムの罪はファトム使用による職務
「
嫌悪も露わなランヴァルトの言葉に、ベネディクトは頷いた。
「幸い、特に何事もなく済みましたが、クランツ男爵の怒りは相当で。当初は事を荒立てることをしたくなかったラナハン卿にも、かなり怒り心頭のご様子でした。よほどにその女を大事に思っておったのでしょう。その後、結婚されることになって、私も式に招かれましたが、ちょうど帝都での
「成程。つまり卿が見るところ、クランツ男爵が身分卑しき女を妻として迎えたのは、才ある息子欲しさだけではなく、その女自身にも執着があったということだな。存外、
ランヴァルトが
「ところでどうしてクランツ男爵の息子のことを?」
「あぁ。知り合いに聞いてな。クランツ男爵の新たな息子となった少年が、シモンと似ていると」
「シモン公子に?」
ベネディクトはすぐさま頭の中で、オヅマとシモンの姿を思い浮かべ、あぁ……と得心した。
「確かに……似ていると言われれば、そうですね。
ベネディクトは慎重に言葉を選んだが、ランヴァルトはにべなく言い捨てた。
「あれは豪放ではなく、無能無策ゆえの空回りというのだ」
「……厳しゅうございます、閣下」
ベネディクトは苦笑いであったが、否定もしなかった。
ランヴァルトが軽く手を上げる。会話の終了を告げる合図であった。
ベネディクトは立ち上がると、再び恭しく礼をして立ち去ろうとしたが、扉を開いたところで呼び止められた。
「そういえば、アンブロシュ卿。そのクランツ男爵の新たな妻の名前は知っているか?」
「は? 確か……ミーナ、という名であったと記憶しております」
「…………そうか」
返事に少しだけ間があったが、ランヴァルトの態度に変化はない。
ベネディクトはしばし立ち尽くして、
扉がパタンと閉まると、ランヴァルトからスッと表情が消える。
ややあって、ベネディクトが出て行った扉の斜め向かいにある扉から、ヴィンツェンツェが現れた。
「ミーナとは……さても
ヴィンツェンツェはニタリと笑って、ランヴァルトを見上げたが、主の表情は変わらなかった。
ランヴァルトはしばらく何かの様子を窺うように沈黙して、ややあって静かに言った。
「先程の従僕、近いうちに連絡をとるであろう」
「おや。鼠でしたか」
「この前からやたらと探り回るのがいると思ったら……。ヤーヴェの
「御意」
ヴィンツェンツェはそれだけで主の意図を察して、早速、特に忠誠の厚い家臣にその仕事を任せた。
二日後の夜、従僕は大公の第二夫人であるビルギットの使いと言ってガルデンティアを出たところで、ある女に呼び止められた。
「誰と会う気かな? 従僕殿」
従僕はまともに応戦もできなかった。
背後で酒焼けした
女は従僕を悠々と片手で持ち上げ、
「畏れ多くもこのガルデンティアの中で嗅ぎ回って、大公家の秘密を盗もうとは……大胆なる盗人もいたものだ」
と、いかにも愉しげに話す。
セピアの瞳は久しぶりの獲物に、舌舐めずりせんばかりの獰猛な狂気を帯びていた。
「あ……あぁ……」
従僕はまさしく猛獣の前の家畜に等しかった。助けを乞う間もなく壁に叩きつけられ、気を失った。
その後、その従僕(になりすましていた者)がどのようにして真相を話すに至ったか、
最終的にヴィンツェンツェから報告を受けたランヴァルトはつぶやいた。
「鹿のほうであったか……。今頃になって
「よき駒を手に入れて、策を練るに忙しいようでございますな」
ヴィンツェンツェはいつものごとく
「やはり爺めの申す通り、あの娘の孕んだのは閣下の
「…………」
ランヴァルトは黙した。
暗い翳りを帯びた紫紺の瞳に、苦いものが
「さて、さて。せっかくの有難い
ヴィンツェンツェは不気味な笑みを貼り付かせてランヴァルトを見上げた。
「急がずともよい」
ランヴァルトは無表情に言った。
「仔鹿(*アドリアンのこと)の近侍となっておるのであれば、いずれ二人同時に手に入る。いらぬ手出しすれば、あちらも何かと反発してくるであろう。そのためにこそ、先々のことを考えて手を打っておるのであろうからな」
クランツ男爵との結婚も含め、新たな息子を近侍にすること、男爵夫人となったミーナを公女の世話係として後見の役目を与えたこと。これらは既に内外に発表されていることだ。この既定事実を無視して、こちらの権利を主張すれば、公爵家側も黙ってはいない……という暗黙なる警告だ。
「グレヴィリウスと我らが争って喜ぶは
言ってから、ランヴァルトは急に襲ってきた頭痛にうっと顔をしかめた。両手で頭を押さえつけて、しばらく痛みに耐える。こめかみを強く押す親指の爪先は皮膚を破き、血が一筋、腕を伝った。
「…………最近、また痛みが
ヴィンツェンツェは
「近きうちに再び手術を……」
「いらぬ!」
ランヴァルトはヴィンツェンツェの言葉を遮り、長く、ゆっくりと息を吐いた。痛みが徐々に緩やかになっていく。ゴロリと寝台に横になると、スルスルと白い蛇が天蓋の柱を伝って降りてきた。
ヴィンツェンツェは無表情に主を見ながら尋ねた。
「では、レーゲンブルトはあのままに?」
「そうだな……」
ランヴァルトはしばしぼんやりと天蓋裏の幾何学模様を見つめてから、ポツリと言った。
「一度、確かめさせてもよいかもしれぬ。本当に使える駒かどうか」
「では、またリヴァ=デルゼでも行かせましょうか?」
「いや、アレは騒ぎを作る。それよりも……」
胸を這う蛇を撫でながら、ランヴァルトはうっすらと嗤った。
「……ちょうど面白がりそうなのがいる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます