第四百十九話 ランヴァルトからの手紙
「小公爵様、先生からのお便りですよ」
サビエルから手紙を受け取ったアドリアンは、
『
光遠き空より
多く手紙をくれていたが、無精をしてすまぬ。なにしろ親しき友人に手紙を送るなど、久しくしておらぬ故、何を書いたものかと考えるうちに月日が過ぎていたようだ。
君がまた、公爵より罰を受けて、雪深きレーゲンブルトに行っているとは、誠に
アカデミーの事前考査に送る小論文について、かの地の風土を材に研究に取り組むとは、さすがは君らしき着眼点である。長く貧弱なる北の
君は母親についてあまり知りたがらないようだが、このクランツ男爵の農耕政策においても、故公爵夫人が様々な助言を与えたと聞いている。特に作物の品種改良については、貴賤に関わりなく、農民や学者などから多く意見を聞き、実際に彼らに討議させたらしい。おそらくは君の均整のとれた思考は、母上に根ざすものがあるのであろう。
例え彼女から直接の薫陶を受けておらずとも、受け継ぐ資質というものは、他者には抗えぬものだ。こればかりは君の父上ですらも、かつてのグレヴィリウス小公爵ですらも、手に入れることができぬ。
大事にしなさい。
母上が君に授けた
当初の手紙においては、君が
君自身が気付いているかどうかはわからぬが、近侍の一人について、随分と鬱屈した思いを抱えているようだ。例の帝都において、君が服を買ってやった近侍のことだ。
だがさほどに気に病む必要はない。クランツ男爵も領地差配に忙しく、まだ未熟なその近侍では、君に『
もし君がどうしても『澄眼』を修得したいというのであれば、我が配下にその技を持つ者がいる。女ではあるが、有能なる戦士だ。彼女であれば、十分に君を指導できるであろう。その上で、もし君に才があり、君自身に覚悟が備われば、私が自らの技を伝授することも
我が稀能は帝国において、今やまともに扱える者は私のみである。修得が難しく、心身への負担もかかる故、弟子は久しくとっていなかったが、君が望むのであれば、惜しむことなく伝えよう。
いずれにせよ、君が帝都に来たときのことになるであろうが、ほんの数月のこと。それまでは、その地において
再び
リウバルト・エリザム=ゾルターン』
(*リウバルトはランヴァルトの古語名。エリザムは二番目、もう一つの、という意。ランヴァルトの仮名の一つ)
読み終わってからアドリアンはその手紙に向かって頭を垂れ、再び同じところを読んでから、胸の中に大事に抱きしめた。
ホゥ、と長く息を吐く。
ようやく呼吸できた気がしていた。このところアドリアンの胸をしめつけていた
サビエルは最近とみに神経質になっていた小公爵が、久々に穏やかな顔になっているのを見て、ニコリと微笑んだ。
「よろしゅうございました。小公爵様の気が晴れたようで」
「あぁ……そう。そうだね、サビエル。心配をかけてすまない」
「私のことなどは構いませんが、ここのところはお悩みが深い様子であられたので……今、こうして元気でいてくださることが嬉しいのです。さすがは先生ですね。遠く離れておられても、小公爵様にこうして力を与えていただけるとは……」
「あぁ……やはり素晴らしい方だよ、あの御方は」
アドリアンは心底からランヴァルトに感謝し、心酔した。
今まで出会った大人の中に、立派な人がいなかったわけではない。
ヴァルナルを始め、公爵家の内外においても、尊敬すべき人はいた。
父のことも、父としては何らの希望も期待もなかったが、大グレヴィリウスを纏める長としては、その重責を担って日々の執務に精励する姿に敬服していた。
だがランヴァルトは、もはや彼らの域とは別のところにいる。
大公という重責を担う覚悟。才能ある家臣を従わせるだけの統率力。
それだけでも十分に完璧な人物であるのに、決して
「時候の挨拶までも、きっとご自分で作られておいでなのだろう。『光遠き空より銀花の舞いたる夕闇の頃……』なんて、サラリと書ける人、そういやしないよ」
アドリアンがうっとりしたように言うと、サビエルも頷いた。
「確かに。多くは時候挨拶の用例集などから、引っ張ってこられるものですからね」
手紙の冒頭に書く時候挨拶は、貴族の
『七色蜥蜴の巣』において、アドリアンはいわゆるこうした
選ぶ言葉にせよ、それらの言い回しにせよ、手慣れているうえ嫌味を感じさせないものを作り上げるのは、よほどの文語学者でも簡単ではない。これはどちらかというと、勉強によって得られるものではなく、天性の美的感覚といってよかった。
「こんな優美な文章を書けるだなんて……さすがだなぁ」
「小公爵様も頑張っておられますよ」
「冗談だろ。この前のだって、君にほとんど考えてもらったようなものなのに」
執事や、特定の
「私などは、どこかで聞きかじったものをそれらしく並べ立てるだけのものです。それにしても、随分とお喜びのようですね。なにか朗報でもございましたか?」
「あぁ。向こうで……帝都で暮らすようになったら、また色々と教えてもらえるみたいだ。これで僕もやっと…………並ぶことができる」
一瞬、無表情になったアドリアンにサビエルは違和感をもったものの、すぐさま嬉しそうに手紙を
だが、ランヴァルトの手紙によって、アドリアンの嫉妬が雲散霧消したわけではなかった。むしろ
アドリアンは結局、ランヴァルトとの交際については秘匿し続けた。
それはもちろん、公爵家と大公家との確執があるために隠さねばならないという事情があってのことだったが、実のところ、その理由は
アドリアンの本心は、ただオヅマからランヴァルトという存在を、ランヴァルトからオヅマという存在を隠したい ―― 決して彼らを会わせたくないという、ひどく独善的な、それぞれへの独占欲に近いものだった。
その自覚があればこそ ―――
「あの御方のご期待に応えるためにも、まずはアカデミーで結果を出さないとね」
アドリアンはにこやかに微笑みながら、胸の奥に沈殿した黒い
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