第四百八話 テリィの冒険

 テリィは曇り空の下、だんだんと冷えてくる森の中で途方に暮れていた。

 大帝生誕月たいていせいたんづきに入って雪の降る日も少なくなり、今日なども朝はきれいに晴れ上がっていたので、少しくらいなら外に出ても大丈夫だろうと思っていたのだ。そもそもはレーゲンブルトの街で、オリヴェルのために絵の具を買ってやろうと雑貨商をうろついていたのだが……



***



「高いなぁ……どうしてこんなに高いんだよ」


 北の辺境で絵を描くなどという優雅な人間はいないのか……。

 帝都に比べると、どの画材も高かった。色の原料となる鉱石や貝殻から抽出した顔料がんりょう自体も高いが、これらを紙に定着させるために使う専用の糊材こざいも高い。

 実家からの仕送りのほかに、一応公爵家からも威儀を整えるためという名目で、毎月小遣い程度にはもらっているので、金に不自由しているわけではないが、同じ画材が帝都でもっと安く買えることを知っていると、なんだか無駄な出費をしている気がして、出すのがしくなる。いくつか買ったら差額分で、レースのハンカチが一枚買えそうだ。そのレースのハンカチにしても、ここだといちいち高いけども。


展色剤メデュームでしたら、作ることも可能ですよ」


 糊材の前で考え込んでいるテリィに声をかけてきたのは、オリヴェルの専属医であるロビン・ビョルネだった。

 こちらに来て早々、水が合わなかったのか腹を下して、診察してもらってから、何度となくお世話になっている。ほとんどはレーゲンブルトの寒さに嫌気がさしたテリィの愚痴を聞いてもらっているだけだったが。


「ビョルネ先生」


 テリィが顔を上げると、ロビンは「こんにちは」と、軽く頭を下げた。


 ちなみに現在、領主館に『ビョルネ先生』は二人いるのだが、なぜか自然とロビンに対しては『ビョルネ先生』、トーマスに対しては『トーマス先生』と子供らが呼び変えるので、今では女中、下男に至るまで二人をそのように呼び習わしている。


 ロビン・ビョルネに対するテリィの信頼は厚かった。

 理由は二つある。

 一つは、ロビンもまた絵に多少の造詣ぞうけいがあったからだ。

 ロビンはロビンで、研究のためのスケッチなどで絵を描くことがあるらしく、その点においてオリヴェルやテリィとも話が合った。正直、画材についてなど領主のクランツ男爵ですらもちんぷんかんぷんのようであったが、ロビンはちゃんとわかってくれる。

 今も、テリィの前にある糊材の入った瓶を手に取りながら言った。


「チャリステリオ君は、この糊材の原料についてご存知でしょうか?」

「え? 確か……スユノキの樹液から作るんでしたよね?」


 スユノキはヤーヴェ湖に浮かぶようにえている、帝都ではそう珍しくもない木だ。だから向こうであれば、この三分の一の値段で売っている。


「そうそう。ここには当然、スユノキはないんですが、似たような作用を持つものがあるんですよ」

「え? なにかの樹液ですか?」

「いえいえ。雪鈴草フェリティアと呼ばれる花の球根です。これをすり潰して、一晩水につけておくと、自然と溶解するので、顔料と混ぜて使ったら同じように絵の具になります」

「本当ですか?!」


 テリィは思わず大声で問い返した。いつも仏頂面をした老店主がジロリと睨みつけてくる。ロビンと二人、目を見合わせてから店の隅に行って、続きを聞いた。


「どこにあるんですか? 領主館の庭ですか?」

「いや。さすがにないです。あれ、わりと繁殖力が強くて、下手に植えると他の草木までやられちゃうそうなんですよ。私はいつもサジューの森まで行きます」

「サジューの森……」


 テリィの声は嫌悪を帯びた。

 何度かその森まで行軍こうぐん訓練として歩かされていたからだ。

 遠陽とおびつきに入ってからは、ロビンに泣きついて、どうにか適当な病名をでっち上げて免除してもらっていた。(これが彼に信頼を置く理由の二つ目だ。)

 経緯いきさつを知っているロビンはフフッと笑って言った。


「まぁ、動機というのは重要ですからね。騎士団の訓練となると嫌々でしょうが、オリヴェル君のためであるならば、一肌脱げるのではないですか?」

「うーん、まぁ……そうですね」


 テリィは一応頷きつつも、ちょっと億劫になってきていた。できればロビンが取りに行くついでに、自分の分も取ってきてもらいたいがそう上手くもいかないだろう。

 まだやる気が起こらないテリィに、ロビンはしばし考えてから、少し悪戯っぽい顔になって言った。


「さっき、僕が言った花の名前、覚えています?」

「え? えーと、フェテリア……でしたっけ?」

「いえいえ。雪鈴草フェリティアです。雪の上でけなげに咲いているお花でしてね。ここいらでは『春を告げる花』『可愛いティア』なんて呼ばれているらしいんですよ」

「『可愛いティア』……」


 つぶやきながら、テリィの脳裏に浮かんだのは鴇色ときいろの髪の少女だった。

 急にハッと我に返ると、途端に顔が熱くなる。


「い、いやいや。そう、そうなんですね! へぇー、そんな花が」


 ロビンはニヤニヤ笑いながら、テリィの顔が赤くなっていることは指摘せずにおいた。ポケットに常備している小さなノートを取り出すと、さらさらと花のスケッチを描いて、紙片をテリィに渡した。


「ここに書いてますが、あわーいピンク色をしているんです。それが雪の上で咲いてるのを見るとね、それだけで春の息吹きを感じて嬉しくなるものなんですよ。まぁ、球根だけ取ってくるのもなんですし、どうせであれば花も一緒に摘んできて差し上げれば、喜ぶ方もいらっしゃるんじゃないでしょうか?」

「そ、そう……ですかね?」

「そりゃあねぇ。花をもらって喜ばない人は少ないと思いますよ。私は」

「せ、先生も一緒に行きませんか?」

「申し訳ない。このあと往診が二件入っておりましてね。では、ご健闘をお祈りいたします」


 ロビンはニコニコ笑って、雑貨商を出て行った。

 テリィはしばらく紙を持って立ち尽くしていたが、紙に描かれたその花の絵をまじまじと見たあと、フンと鼻を鳴らして気を奮い立たせた。


「よし、一肌脱ごうじゃないか。…………オリヴェルのために」


 わざわざオリヴェルのためだと言ったが、頭の中に浮かんでいたのは、その花の名を持つ少女の姿であった。



***



 それから。

 勢い込んでレーゲンブルトを出てサジューの森に向かったまではよかった。

 道中も、行軍の時にはしんどくてたまらなかったが、と思えば頑張れた。

 ロビンの判断は正しく、テリィは自らの動機さえはっきり持てば、十分に力を出せる男であった。


 サジューの森は騎士団が頻繁に訓練で訪れるため、木々なども適度に伐採ばっさいされており、よほど奥深くに入り込まない限り、危険な動物などもいない。

 テリィは明るい木漏れ日の中で、雪鈴草フェリティアを探し回っていたが、そう時間もかからず見つかった。

 ロビンの言っていたように、本当に淡いピンクの花で、雪の上でなければ白と見間違えそうだった。一つ見つけると周辺一面に咲いているので、ほぼ取れ放題だった。

 せっかく帝都で買った山羊ヤギ革の手袋は汚れてしまったが、素手で掘ることに比べればマシだ。おそらくアカデミーに合格すれば、母親がプレゼントをくれるはずなので、そのときにでもまた頼めばいい。


 必死でテリィが雪鈴草フェリティアを掘っている間に、空は徐々に雲ってきていた。

 ふと寒さを感じて顔を上げる。

 そのとき、木々の間からこちらを窺っている目と目が合った。


 ヒュウイィィ!!


 急に響く鋭い啼声ていせい

 テリィはビクリと身を震わせると、反射的に走り出した。


 目だけ合った獣は狼なのか、山狗やまいぬなのか、熊なのか……?

 何なのかはわからなかった。確認するのも怖かった。

 ともかく逃げた。

 逃げないと襲われると思った。

 そうして遮二無二しゃにむに逃げたあとに、テリィがどうなってしまったのかというと……。


「ここ……どこ?」


 迷子になったテリィは、途方に暮れたように空を見上げた。


 いつの間にか晴天は去り、太陽は厚い雲に覆われていた。

 頬にあたる風は冷たく、強くなってきている。

 なんとなく湿り気を帯びたような空気に、テリィは嫌な予感がした。下手したら雨か、雪か……。


「嘘ぉ……」


 ヨロヨロと二、三歩後ろによろけたときに、ぐらりと体が傾く。


「ひゃああぁぁ!!」


 どこかに落下していく自分に驚いて、テリィは悲鳴を上げた。


 ヒョウヒョウとヴェッデンボリ山脈から吹きつける風に乗って、泣きそうな叫び声が森の中に響き渡った。

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