第三百九十二話 公爵と息子
アドリアンはオヅマが去ったあと、しばらくその出て行った扉を見つめていた。
ふと、うつむいて長く息を吐く。置いてあったナプキンを手にすると、眉上の傷に押し当て、再び父に対した。
だがそこに立ち尽くす父は、いつもの冷厳たる公爵ではなかった。途方に暮れた迷い子のように、ひどく困惑して見えた。
アドリアンはゴクリと唾をのみこんで、静かに言った。
「謝るつもりはありません」
公爵が顔を上げて、アドリアンを見つめる。その目はどこか虚ろだった。自分の前にいるのが息子だともわかっていないかのように。
「公爵様に向かって、オヅマが無礼な態度をとったことは認めます。けれど彼は、あれでも耐えてくれていたんです。僕は彼を責めることはできません。本当であれば、彼が言ったことはすべて、僕が言うべきことでした」
公爵はかすかに唇を動かしたが、言葉にはならなかった。
アドリアンはすぅと息を吸うと、ジロリと給仕のために立っていた先程の従僕を見た。
「あの従僕は先程、公女に対して無礼を働きました。それを注意した僕に対しても、謝罪はしましたが、本心からのものでないことは明らかな態度をとりました」
いきなり自分の話題に及んで、従僕はあわてて弁解した。
「なっ……そのような事は……小公爵様の思い違いにございます!」
しかしアドリアンは冷たく従僕を見てから、その目と同じ温度で、父である公爵を見つめた。
「この従僕だけでなく、この公爵邸本館において僕を軽視する者は後を絶ちません。僕はそれらのことを受け入れてきました。甘んじて……自らの
アドリアンは言いながら情けなくて仕方なかった。
どうしてこうまで自分と父はこじれてしまったのだろう。
母とも呼べぬその女性がいてくれれば、幸せであったのか?
だとすれば、その
再び深呼吸して、アドリアンはきっぱりと告げた。
「けれど今日、オヅマが教えてくれました。僕がこの屋敷の使用人にすら見くびられる原因をつくったのが公爵様であるように、あなたを不幸にしたのはあなた自身です。僕ではない」
息子の冷ややかな視線に、公爵の顔は凍り付いた。
その前にアドリアンが母のことを『公爵夫人』と言ったときから、公爵の胸の中に、感じたことのない痛みが生じていた。
そんな父の
「僕を本当に憎み、嫌い、疎ましく思うのなら、この公爵邸から追い出せばいい。二度と顔を見ることすらも
「……私を」
公爵は小さくつぶやいた。
「父と……認めぬということか?」
その言葉にアドリアンは一気に怒りが沸騰した。
「父であろうなどと、思ったこともないくせに!」
苛立たしげに眉を押さえていたナプキンを公爵に向かって投げつける。血の染みついたそれは、公爵の胸に当たって足元に落ちた。
アドリアンは力なく立ち尽くす父の横を、足早に通り過ぎた。
食堂の扉を開くと、残っていた警護の騎士に尋ねる。
「オヅマは?」
「……北の塔に」
「わかった」
頷くと自らも北の塔へと向かった。
歩きながら涙があふれてくる。
結局、父とはわかりあえない。
きっと永遠に、理解し合うことなどないのだ……。
***
二人の少年が去ったあと、公爵は無言のまま出て行った。
ふっと空気が緩んだと同時に、ティアがその場にくずおれた。
「ティア!」
ミーナがあわてて駆け寄って、ティアの肩を抱く。
「部屋にお連れしたほうがいいだろう」
ルーカスが言うと、ティアはふるふると首を振った。
「ごめんなさい、私が悪いんです。私がここに来なければよかった……」
「何を言うの、ティア」
ミーナが泣きじゃくるティアの手をギュッと握りしめる。
それでもティアは申し訳なくて、ひたすら謝った。
「私が来たから、きっと公爵様もアドリアンお兄様も、ずっと我慢していたのに……私が、私が、悪いんです。きっと、この髪も……きっと、私の姿が気に障ったんです」
目の前で繰り広げられた騒動に、ティアはすっかり気が動転していた。その脳裏には、晩餐前に行われた公爵との初対面の光景が浮かぶ。
◆
「きっとティアは気に入られるよ」
公爵との対面を控えて、緊張するティアにアドリアンは言った。
「僕の母上に似ているからね。最初は驚かれるだろうけど、きっと、お喜びになるだろう……」
アドリアンは微笑んでいたが、その表情がどこか暗いことをティアは感じていた。きっと兄にとって、ティアのこの姿は、あまり好もしいものではないのだろう……とも。
それでも励まされたことは嬉しくて、兄の言葉を信じて公爵との対面に臨んだが、いざティアを目の前にしても、公爵の顔に何ら変化はなかった。
「サラ=クリスティア様であられます」
家令のルンビックからの紹介に対して、公爵の発した言葉は、ただ一言。
「そうか」
ティアからの挨拶も、どんよりとした鈍い瞳で聞いていただけだった。
挨拶が終了して軽く公爵が顎をしゃくると、そのまま退出を命じられた。
一言も口をきいてもらえなかった。
チラリと公爵の背後の壁に架けられていた女性の肖像画が見えたとき、ティアはすぐにそれが亡き公爵夫人だとわかった。兄からも聞いていた通り、
確かに自分と髪の色は同じであったが、とても似ているとは思えなかった。痩せっぽちの自分が、あんなに美しい人になれるわけもない。
であればこそ、公爵である父は自分に失望したのだろう。髪の色だけ似ているのが、いっそのこと苛立たしいほどであったのかもしれない。
それくらい公爵はティアに関心を示した様子がなかった。
◆
それだというのにティアの存在は
今まで蓋して穏便に暮らしていたのに、ティアが来たことによって、彼らの関係に
ティアは泣き濡れた目で、粉々になったグラスの欠片を見ながら思った。
やっぱりここに来てはいけなかった。
自分はあのアールリンデンの館で ―― 陰鬱で、母の泣く姿が亡霊となっていつまでも染みつくあの家で、一人、小さく生きていかねばならなかった……。
ティアは泣き続けた。泣いて泣いて、そのまま眠ってしまったことにも気付かないまま、夢の中でも泣き続けた……。
***
北の塔の牢は、冷たく暗い、そこにいるだけで陰鬱な気分になりそうな場所だった。窓もなく、北向きのこの場所では、たとえ石の隙間から光がはいるとしても、弱々しいものだろう。ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎が一つあるきり。光から離れた隅の暗がりには、何かがいそうなほどに色濃い影が落ちている。
オヅマはぺたんと壁際に座り込んでから、ごろんと横になった。
今更だが、お腹が空いた。
怒鳴ったからなのか、今まで知らず知らず溜め込んでいたものを吐き出したせいなのか、すっきりして腹が減る。我ながら
今頃、母は必死になって謝っているのだろうか。いや、ヴァルナルであれば、母を謝罪させるよりも前に、自分から頭を下げているのだろう。息子の無礼を許してほしいと。
その想像をすると、少しだけ胸の奥に焦げたようなチリチリした痛みが走った。
言い過ぎたのはわかっている。
アドリアンに対する公爵の態度について注意したかっただけなのに、必要以上に責め立てた。しかもアドリアンを盾にして。
本来、あの言葉を言いたかった相手は、公爵じゃない。
本当に言いたかったのは、かつての養父・コスタスに対してだ。
物心ついたときから、乱暴で傍若無人な、何ら父らしいところのない男であったが、それでもまだ祖母が ――コスタスの母 ―― が生きていた頃はマシだった。あの男も自分の母親にだけは、威張り散らしながらでも、息子として
祖母は優しくて、弱い人だった。
どうしてあんな父が生まれたのかと不思議になるくらいだったが、祖母の夫 ―― コスタスの父 ―― も息子同様に横暴で身勝手な亭主であったらしいから、きっとコスタスはその父の悪いところを受け継いだのだろう。嫌なことがあったら、酒に溺れることも含めて。
祖母が死んだ途端、コスタスは悲しさから逃げるように、毎日泥酔し、ひたすら酔い続けた。
オヅマはほんの少しの、かけらのような期待をしたのかもしれなかった。
コスタスがまともになることを。
自分を息子として認めてくれることを。
だから黙って耐えた。我慢した。殴られても蹴られても、いつかこの苦しい日々に、笑い声が満ちることを祈っていた。
けれど……
―――― 我慢して、我慢して……誰かの為に、自分を押し殺して生きても、結局裏切られるのならば?
その想像に、オヅマは固まる。
それはもうずっと前に、オヅマにしみついた恐怖であり、底知れぬ諦めであった。
あんな男に、父としての情愛を求めること自体、愚かなことだ。
そうして心は冷えて、凍って、やがて何も感じなくなる……。
「……はぁ」
オヅマは大きく息を吐いた。わずかに感じる温かな吐息に、ホッとする。
また夢に引きずられそうだった。
軽く額を叩いて、かすかに残るその恐ろしい感覚を追い払った。
大丈夫。きっと大丈夫だ。母は生きてる。マリーも元気でいてくれる。それに……
「やぁ、いたな」
コツコツと響いてきた足音に目を向けると、そこに立っていたのはアドリアンだった。
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