第三百九十一話 母という名の禁忌

「皆、よく来た。ゆるりと過ごせ」


 相変わらず短い挨拶を終えると、公爵は座ってすぐにワインを注がせた。

 公爵の登場と同時に起立していた面々もまた、ガタガタと再び椅子に座って、ようやく食事が始まる。

 もっとも、まだ公爵は本調子でないのか鈍い目をしていて、ワインを飲むだけでも物憂げな表情だった。


 基本的にこうした晩餐においては、あるじが話さないうちに、招かれた者だけで会話することはマナー違反である。公爵が話すまでの間、カチャカチャとナイフが食器を小さく打つ音が響いた。

 なんともいえぬ沈黙に、誰もが気詰まりを感じていると、ティアが不意に「あっ」と声を上げる。

 カシャンとフォークが一つ床に落ちた。

 どうやら置かれてあったフォークの先を袖のレースで引っかけたらしい。


「す、すみませんっ」


 あわてて屈み込んで取ろうとするティアを、アドリアンが制止した。


「ティア、取らなくていい」

「えっ……あ……すみません」

「そうしたことは召使いがする。落ちても知らんぷりしておくんだ」

「……はい、すみません」


 ティアは身をすぼめて謝ったが、その時、公爵が鋭く言った。


「ずいぶんと仲良くなったようだな」


 一瞬にして緊張が走る。

 その声音だけで、公爵の機嫌がよろしくないであろうことは、その場にいた者すべて ―― それはテーブルについている者だけではなく、給仕を行う執事、従僕に至るまで ―― がすぐにわかったからだ。

 アドリアンは姿勢をただすと、軽く息をついてから言った。


「はい。ティアがレーゲンブルトよりこちらに帰還したときに、公爵様……父上の計らいで一緒に食事したので」

「フ……ルンビックが気を利かせたのであろう。には長年悩まされておるゆえ」


 その皮肉に気付いたのはルーカスぐらいで、さすがに腹心であればクスッと笑みを浮かべることもできたが、それ以外の者にそんな余裕はなかった。


「食事を一度した程度で、そう仲良くなることなど有り得ぬであろう。聞けば最近は、頻繁に街に出ているようだな。アカデミーの受験も迫っているというのに、悠長なことだ。まさか入学さえすれば良いなどと考えているのではなかろうな?」


と、公爵が問うたのは、アカデミーに入学すること自体は、たとえ試験があるとはいえ難しいことではなかったからだ。

 一定以上の家格の貴族子弟であれば、入学はほぼ確実にできる。

 アカデミーの維持や研究資金は、多く貴族からの寄付によって成り立っており、その見返りとして貴族子弟を受け入れるのは慣習となっていた。まして毎年高額寄付者として名を連ねるグレヴィリウスにあっては、アドリアンだけでなく、その近侍も含めて、全員合格するのはわかりきったことだった。

 それでもアドリアン始め近侍らに学習が課されたのは、受験に合格するためではない。


「試験において【一葉いちよう】を手に入れる程度でなければ、恥となろう」


 アカデミーにおいては習熟度、学習態度、調査・考察などの総合力を、九つの【葉】で評価される。最上位にあたる【九葉くよう】などは、よほどの研究成果を残さぬ限り与えられるものではなく、【五葉ごよう】以上で卒業条件を満たすとされた。最長七年の在籍の間に【五葉】を手に入れることができなかった場合、あるいは教授や老師らからの特別推薦などがなかった場合には、強制的に退学となる。

 アカデミーは有力な貴族子弟を受け入れはするが、その成績について斟酌しんしゃくすることは全くなかったので、生半なまなかな気持ちで入って、卒業できない貴族の若君は毎年一定数いた。

 公爵はそうした事情を十分にわかった上で、アカデミーの入学試験において【一葉】を取ることを要求している。これはつまり、その年の受験者の中で上位を取れと言っているに等しい。


「……試験とは別に小論文を提出する予定です」

「予定? まだ出来ていないということか?」

「……今はまだ主題テーマが決まっていません」


 公爵はハッとあきれた笑みを浮かべた。


「まだ書くことも決まっておらぬうちから街に出て、下々の者らと遊興にふけるとは……自覚のないことよ。そのような怠惰を許すのは、公女か? それとも……そこにいるヴァルナルの義理の息子か?」

「この場にいる誰のせいでもありません!」


 アドリアンは公爵が言い終わるやいなや、すぐに立ち上がって叫んだ。斜め前に座っているオヅマが公爵を睨みつけているのがわかったからだ。今にも怒鳴りつけそうなオヅマを目で制して、アドリアンは公爵ちちに向き合った。


「確かに街に出て、下町の子供たちと交流を持ちました。けれどそれを遊興であるように言われるのは心外です。彼らのような貴族ではない人々、世間からは下賤と呼ばれる身の上であっても、秀でた人間はいます。彼らと話をすることは有用なことです。母上も……」


 アドリアンは言いかけて、息を呑んだ。それはヴァルナルやルーカスも同様に、を示す言葉が出た途端に、顔を強張らせた。

 口を噤んだアドリアンの前で、公爵は冷たい面のまま、鳶色とびいろの瞳に怒りを滲ませている。睨む先にいるのは自分の息子であるのに、まるで仇であるかのように恨みのこもった目だった。

 いつもであれば、アドリアンはそのまま口を閉ざして「すみません」と頭を下げていただろう。いつもはそうしていた。そうして父の怒りをしのげば、また無関心になることはわかっていたから。


 けれどその日、アドリアンはとうとうのことを、自らの口から述べた。


「母上も、貴賤に関係なく人々に尽くされておいでだったと聞いております」


 言い終わると同時に、公爵は立ち上がり、持っていたワイングラスを机に叩きつけた。パリンと乾いた音が響く。

 飛び散ったグラスの破片の一部が、アドリアンの眉上をかすった。


「お前に……と呼ぶ資格はない」


 呪詛じゅそのような、公爵の怨念の籠もった低い声が響く。ゆらりと一歩、アドリアンに近付いて ―――


「アドル!」


 凍り付いた場で動いたのはオヅマだけだった。アドリアンの前に立つと、振り上げた公爵の手にバシリと頬を打たれた。


退け」


 空洞のような公爵の鳶色の瞳がオヅマを脅す。

 だがオヅマは退かなかった。ギロリと公爵を睨み、怒鳴りつける。


「一体、どういうつもりだッ!?」

「場をわきまえよ。お前が私に無礼を働けば、お前が庇っているその小公爵が罰を受けることになるぞ」


 公爵は冷然と言い放つ。

 オヅマは怒りが沸騰して我を忘れそうであったが、握りしめた拳を止めるようにアドリアンが腕を掴んでくる。

 アドリアンはもう片方の手で眉上の傷口を押さえていたが、頬を伝い流れる血で、白いシャツの襟は真っ赤に染まっていた。


 目の前で起きている異様な光景に、ティアは心臓が潰れそうだった。自分のせいだと叫びたかったが、胸が苦しくて声を出すこともできない。

 ミーナはあまりに痛々しいアドリアンを放っておけず、また同時に息子をどうにか止めようと一歩進んだが、ヴァルナルに止められた。

 ヴァルナルはミーナを制したまま、直立不動で黙っている。

 ルーカスも立ち上がってはいたが、公爵からは一番遠いその場所からじっと見ているだけだった。


 オヅマは浅い呼吸を繰り返した。

 本当は目の前の自分勝手で横暴極まりないこの男……アドリアンの父であるのに、息子を恨んでいるかのように睨むこの男を、今すぐにでもぶちのめしたかった。

 だがその腹立たしい男の言うように、ここで手を出したらアドリアンが罰せられ、今度こそオヅマは公爵邸を追い出されるだろう。

 この場合、公爵や周囲がオヅマを追い出すのではなく、ヴァルナルが無理にでもオヅマを連れ帰るに違いない。


「本気で……思っているんですか?」


 オヅマは必死で怒りを押し殺し、公爵に尋ねた。


「……なに?」

「本気で、アドルが生まれたから奥様が死んだと思っているんですか? アドルが閣下の奥様を……自分の母親を殺したと思っているんですか?」


 公爵の表情はますます固く、凍り付いた。酷薄さすら感じる無表情だった。

 だがオヅマはそんな公爵の表情にもたじろがなかった。


「奥様が死ぬときに言ったんですか? アドリアンを恨めって。この子を生んだせいで自分が死ぬから、息子を憎めと」

「…………」

「もしそうなら……その奥方ってのも、閣下とそう変わりないですね。やたらと賢夫人だの何だのと評判だけはいいが、夫婦二人して……クソッタレだ」


 吐き捨てたオヅマの言葉に、公爵の鳶色の双眸そうぼうが、暗く、赤く閃く。自分だけでなく妻のことまでもざまに言われたことで、公爵の怒りは一気に飽和した。


「貴様……我が妻を誹謗ひぼうするか……!」

「あぁ、そうだよ! あんたにとっちゃご立派で美しい奥方でもなぁ、俺にとっちゃ、息子に理不尽なことをする旦那を止めることもできねぇ、ただの死人だ!」

「…………」


 公爵は蒼白になった。

 逃れようもない現実を突きつけられて彫像のように固まり、息することすらままならない。

 オヅマは迷い子のように狼狽うろたえる公爵を見て、ますます苛立った。


「あんたがそうやって、死んだ奥さんのことばかり考えて、悲しんでいる間に、どれだけアドルが我慢してきたと思ってる? ティアも…………どれだけの人間が、傷ついてきたと思ってるんだ?!」


 オヅマは怒りつつも、一方で冷静だった。視界の隅で自分に近付こうとするヴァルナルを捉えて、鋭く言った。


「ここにいる大人は、全員同じだ! 全員がアドルに我慢をいてきたんだ! ティアに母親の罪をなすりつけたんだ! なにが大人だ。本当に大人だって言うんなら…………親だとか抜かすんなら、子供に甘えんなよ!!」


 その場の誰一人として声を発することもできず、動くこともできなかった。

 特に、長く公爵の側にあって、その悲しみを見てきていたヴァルナルとルーカスは、あまりにも正しいオヅマの言葉に、ただ目を伏せた……。


 オヅマは言いたいことを吐き出して、ようやく落ち着きを取り戻した。ふぅ、と一度深呼吸してから、目の前で茫然と立ち尽くす公爵を冷たく見つめた。


「……アドルに大人の顔をさせて、いつまでもメソメソ泣いてるのは、あんたの方だ」


 オヅマは公爵に一片の同情も与えなかった。

 そのまま誰を見ることもなく、スタスタと扉の方へと向かう。

 扉を開くと、警護にあたっていたカールともう一人の公爵家騎士団の騎士が、オヅマを止めた。


「北の塔に……連れてって下さい」


 オヅマは無表情に言った。

 北の塔は公爵邸の北端にそびえる塔で、そこには公爵家内における反乱分子などが収監される。

 カールは眉を寄せ何か言いかけたが、そのとき再び扉が開いてルーカスが顔を出した。


「……連れて行け」

「よろしいのですか?」

「当人が頭を冷やすと言うんだから、そうしろ」


 カールは無言で騎士礼を行うと、オヅマを促した。

 チラ、とオヅマはルーカスを見たが、その顔にいつもの薄笑いはなかった。怒っているのか、あきれているのか、判然としない。見事なまでの無表情だ。めずらしく茶化すこともなく、ルーカスは扉を閉めた。


 オヅマはカールの後にいて歩き出した。

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