第三百八十九話 アールリンデンの街にて

 公爵は結局、ちょっとした風邪を引いていたらしい。医者からしばらくの休養が必要とされたので、ティアとの面会は延期された。


 その間、オヅマらはアールリンデンの街を毎日訪れた。

 そもそもはアドリアンがちゃんとレオシュに礼を言っていなかった、というのを気にしてのことだ。丁重に礼を言われたレオシュは目を白黒させていたが、ともかくもアドリアンが誠実な性格であることはわかったらしい。


「俺、実はちょっと心配だったんだよな。あの小公爵様が兄でさ、ティアが冷たくされたりするんじゃないかと思って」


 レオシュはこっそりとオヅマに言ってから、でも、と笑った。


「考えてみれば、オヅマのご主人様なんだもんな。お前がそんな奴の下でおとなしくしてるはずがない」

「なんだそれ。まぁ……その通りだけど」


 確かに言われてみればそうであった。

 自分におよそ貴族子弟のような礼儀が身についているとは思えない。アドリアンがそれこそ、公爵家のお坊ちゃまらしく尊大で我儘な性格であったのなら、近侍になろうなどと思わなかった。

 そう考えると、そもそもオヅマのような平民上がりの無礼者を近侍にして、まともに取り扱ってくれるだけ、アドリアンの器量は相当に図太い。


 今も下町の少年相手に平然と話していた。

 テリィなどは明らかに敬遠しているし、マティアスも渋い顔だが、アドリアンは彼らと触れあうことすら忌避する様子はない。

 こうした境遇の者に対しての無知から、時折失礼な質問をすることもあったが、それが彼らに対して非礼であると理解したら、素直に謝っていた。これは公爵家のお坊ちゃんという身分にかかわらず、ただ人としてであっても、優れた資質といえる。

 自分の間違いを素直に認められる人間は、大人であっても少ないものだ。むしろ大人になるほど少ないかもしれない。

 まぁ、そういう素直さの裏返しと言うべきなのか、エッダの家であったような盛大なボケをかましてくるのだが……。


 少年らとの交流の中で、彼らとオヅマとのなれそめを聞き、青月団員たちが着るシャツの話になると、アドリアンはすぐさま行動した。


「そんなにいいシャツなら、僕も着たい。乾きやすいなら、訓練着としていいじゃないか」


 ということで、エッダに自分も含めた近侍達のシャツの製作を願い出た。(ちなみにエッダは最初にそのシャツを縫って、オヅマを利用しての宣伝に一役買ってもらったということで、ラオから割安でそのシャツの布地を買い受けていた)

 エッダは自分のような身分の低い針子の仕事よりも、公爵家であればお抱えの裁縫師がいるだろうと言ったが、アドリアンはニッコリ笑ってその進言を退けた。


「僕も一応、青月団の名誉団員となった以上は、ここで作られたものを着るべきだろう。それにティアから、あなたの裁縫の腕はこの町で一番だと聞いています」


 有無を言わせぬその微笑に、エッダは骨抜きになってしまった。


「ティアのお兄様ってさぁ、なにげに罪作りよね。あの笑顔であんなふうにお願いされたらさぁ、私でも『喜んで!』ってなっちゃうわよ。将来が不安ね。オヅマ、あんたちゃんと守っておかないと、ああいうタイプは知らない間に女の恨みを買うわよ」

「…………はいはい」


 初めて会ったときにはその兄に食ってかかったというのに、まったく女心ときたら……とオヅマはあきれたが、とりあえずおとなしく頷いた。

 実際、下町の少年だけでなく、少女に対しても隔てなく接するアドリアンは、たちまちのうちに少女らの憧れとなっていたからだ。

 もう少し後の話になるが、やがて『麗しの小公爵様』として、アドリアンは下町娘たちのちょっとしたアイドルになってしまった。そこに対抗するようにオヅマについても噂されるようになり、アールリンデン娘の人気を二人で二分することになるのだが、このことについては当人達のあずかり知らぬことであった。


 ともかくもズロッコの青月団から始まって、エッダが得意先の女将さん連中にも、小公爵様のちょっとトボけた一面も含めて話したせいで、それまで巷間こうかん流布るふしていた「小公爵様は気難しくて癇癪持ち」という風聞は、しだいに消えていった。


 こうしたアールリンデンにおけるアドリアンの名誉が回復されること以外にも、街中を歩くのはティアとアドリアン二人の兄妹にとって、距離を近づけるきっかけとなった。

 見慣れない庶民の風物について、素朴な疑問を呈する兄に、ティアは面倒くさがることなく、一つ一つ丁寧に教えてやった。


「これは……なんだ? 塩か?」

「いえ。これは洗濯だとか、食器を洗うのに使う粘土です」

「粘土? この白いのが?」

「はい。これで洗濯すると、とても綺麗になるそうですよ」

「お前は使ったことがあるのか?」

「いえ。高価なので、私は使ったことはないです。普通は皆、灰汁あくとかで洗います」

「そうか。ティアは物知りだな……」


 どっちが兄だかわからなくなるような会話であったが、不思議とこの兄妹のなごやかな雰囲気は周囲の人間を笑顔にさせた。口やかましいマティアスですらも、やや苦笑しつつ見守っていた。


 カーリンもまた、しばらくはぎこちない様子であったが、頓着しないオヅマの仲立ちもあって、徐々に近侍らとも、会話するようになっていった。(ちなみにテリィは最初からカーリンをティアの専属侍女と決めてかかって、まったく疑う様子もなく接している。)

 アドリアンはまだ少しわだかまりを残していたが、ティアが一緒にいる間は、とりあえず妹の侍女として接することで、会話は増えていった。ただ、時折感じるカーリンからの妙に意味ありげな視線には慣れず、それは無視していたが……。




 こうしてレーゲンブルトから戻ってきて、意外に安穏とした生活に慣れてきたティアであったが、とうとう公爵が病から回復し、面会することになった。

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