第三百八十八話 兄と妹
「あぁ~、ティア!」
狭い階段を上った先にある仕事道具が散乱した小さな部屋で、エッダはやって来たティアを見るなり抱きしめた。
「ちょっと太ったんじゃない? んもう、ますます可愛くなって! これじゃ男の子が放っておかないわね!」
機嫌よく言ってから、あとからついてきたオヅマを始めとする面々を見て、ニヤッと笑う。
「あら~。さっすが公女サマともなると、こーんなに護衛さんとやらがおつきになるのぉ~? オヅマ、ライバルがたくさんいて大変ねぇ~?」
オヅマはエッダの勘違いに苦笑いを浮かべて訂正した。
「あいにく護衛は扉の向こうだよ。俺らは……」
言いかけてティアに目を向ける。
ティアはすぐに察してエッダから離れると、おずおずとアドリアンの横に立った。
「あの、エッダさん。ご紹介します。この方はその、アドリアン……小公爵様、です」
アドリアンはそれまで『お兄様』と呼んでいたティアが、それこそいきなり小公爵であると紹介するので、少しムッとなって見た。
一体、どっちなんだ……と言いたくなる。
けれどそんな些細なことに振り回される自分も見せたくなかった。
フードを取ると、優雅に手を回してから胸に当てて、軽く頭を下げつつ腰を落とす。貴婦人に対するお辞儀だった。
「初めまして、エッダ……嬢。僕はサラ=クリスティア公女の兄、アドリアン・オルヴォ・エンデン・グレヴィリウスです。公女が長く世話になったお礼を申し上げに参りました」
エッダはしばらく唖然としてアドリアンを見ていたが、ともかくも何かしら返事しないといけないと思ったらしい。
「まぁ、まぁ……これは、これは。わざわざお越しでいらっしゃってくださって……えぇと、ともかくも、まぁ……こんにちは」
しどろもどろになって、妙なタイミングで挨拶をしたエッダに、アドリアンはパチパチと瞬きしてから、落ち着いた声で言った。
「今日はひとまずお礼にのみ来ました。後日、公爵邸より使者が正式に御礼に参りますので、気兼ねなくお受け取りください」
「へぇ、はい。……えっ?」
エッダは言われるままに頷いていたが、頭で繰り返してからようやく我に返ったのだろう。急に大声を上げると、ムッと眉を寄せた。
「『お受け取り』って……なにを受け取るっていうんです?」
「それは……僕も存じませんが、おそらく
「はあぁぁ??」
エッダはあきれと怒りの混じった声で問い返す。
アドリアンはキョトンとなった。
エッダとアドリアンの間で、オヅマがハァと嘆息する。
「なんだ?」
アドリアンが意味がわからぬ様子で
「別にお礼とかいらないし。私がしたくてしたことですから!」
「え? ……でも、使者は来ると思いますよ。僕が指示したことじゃなくて、公爵閣下がお決めになったことですから」
真面目くさって答えるアドリアンに、エッダはギリギリ歯軋りしたが、オヅマが「まぁまぁ」と取りなした。
「エッダさん、そう怒るなって。こいつだって悪気はないんだから」
「悪気がないのは、ティアを他人同然に見てるからでしょ! なんなのよ、まったく。今まで散々、ティアのことをほったらかしておいて、あの迷惑な母親が死んだ途端に今更、公女なんてさ。おかしいと思ったのよ! なに、ティアを公女にして、どうしようっての?」
エッダの剣幕に、即座にマティアスとエーリクが立ち塞がった。
「失礼な! 小公爵様に対して、なんという口の
マティアスがいつものごとく厳しく叱責し、エーリクは無言でマントの下にある剣の柄に手をやる。
ティアは顔色を変え、あわててエッダの腰に
「やめて下さい! エッダさんも怒らないで」
必死になって止めようとするティアに、エッダは真剣な顔で問いかけた。
「ティア。あんた本当にこのまま公爵邸に行って大丈夫? そりゃ、贅沢な暮らしはさせてもらえるだろうけど、私はあんたがあそこにいたときよりも、つらい目に遭うくらいなら、ここで針仕事して身を立てたほうがいいと思うよ。あんた芽がないわけじゃないし」
エッダの親身なアドバイスに、マティアスが怒鳴りつける。
「なにを勝手なことを抜かしているんだ! 公女様に対して働けなどと、失礼極まりない!」
「うるさいわね、この
「なっ! こ、この不敬なっ! 刑吏に言って……」
「まぁまぁ」
オヅマはマティアスの肩をポンと叩き、二人の間に入った。
「エッダさんも、そう熱くなるなって。もしこれでエッダさんが不敬罪やらなんやらでとっ
エッダは自分の腰にしがみついたままのティアの頭をなでて、ふぅと息をつくと、軽く頭を振った。
「悪かったね、ティア。アンタがまた、我慢ばっかりしてるんじゃないかと思うと、一言物申したくてさ」
「私は……大丈夫です」
ティアはエッダを安心させるようにニコリと微笑むと、おもむろにアドリアンに向き合った。ギュッと唇を噛みしめ、緊張した面持ちで見つめる。
アドリアンは何を言われるのかと身構えたが、ティアは急に頭を下げた。
「すみません」
いきなり謝られて、アドリアンは困惑した。
マティアスも声を張り上げる。
「このような無礼な女のために、公女様が頭をお下げになる必要はございません!」
エッダが腕を組んでムッとマティアスを睨みつける。
しかし二人の間に立って、ティアはきっぱりと言った。
「いいえ。エッダさんよりも、私の方がもっと謝らないといけないことがあります」
「君がなにを謝るというんだ?」
アドリアンが尋ねると、ティアは両手を組んで、泣きそうな顔になりながら言葉を紡いだ。
「本当は昨日、ちゃんと謝るべきでした。お母様が小公爵様を傷つけたことを……」
ピクリとアドリアンの眉が寄る。
「そんなのティアのせいじゃないだろ!」
オヅマが不満げに遮ると、ティアはふるふると首を振った。
「いいえ。公爵家の公女になるのなら、私はお母様のしたことを、まず一番に、小公爵様に謝らないといけなかったんです。本当に……すみませんでした」
震える声で言って、ティアは深く頭を下げる。
先程までの怒声が飛び交ったのが嘘のように、その場はシンと静まり返った。
オヅマはいっそ「謝るな!」と怒鳴りたかったが、ぐっとこらえた。
それを言うべきは自分じゃない。
じりじりと待っていると、ようやくアドリアンが口を開いた。
「君のせいじゃない」
ティアは一瞬、顔を上げる。だが、見上げたアドリアンの顔が無表情に見えて、すぐに伏せた。
アドリアンは、まだ深く頭を下げたままのティアに、何をどう言えばいいのかわからなかった。だが
「……君のせいでないことで、君が謝る必要はない。悪く思う必要もない。もし、僕に対して反省すべき人がいるならば、それは死んだ君の母親であって、君が反省する必要はない……」
ティアはゆっくりと顔を上げた。じっと窺っていると、アドリアンは何度か何かを言いかけては、口を噤んで、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「今まで君を放っておいたことも……申し訳ないと思う。君という存在がいることは知っていたけど……僕は無視していた。母親と一緒に暮らせているなら、公爵邸なんかに来るより、ずっといいんだろうと……思っていたんだ」
それは、アドリアンの本心であった。
話にだけ聞く妹のことを考えるとき、いつもその側には妹の母親である女の姿があった。
母に似ていたという女。
幼いアドリアンを襲い、公爵邸から追放された女。
それでも
「オヅマから君が母親に虐待を受けていたと聞いて……僕が思い描いたような生活をしていたわけじゃないんだとわかって……」
アドリアンはいったん、言葉を区切った。
目の前で自分を見つめるティアを見れば、そこには自分と同じ
「……すまなかった。会ってからも冷たい態度で……」
「そんなことないです!」
ティアはあわてて遮った。
「今日もこうしてついてきてくださって、レオシュさんやエッダさんに挨拶してくれて、ありがたいと思ってます!」
真剣な眼差しで言い切る妹を、アドリアンはまじまじと見つめてから、ポツリと問いかけた。
「……じゃあ、どうしていきなり『小公爵様』になってるんだ?」
「え?」
「ずっと『お兄様』と呼んでいたじゃないか。さっき、いきなり『小公爵様』になっていた」
「それは……あの、お兄様が私を『公女』とお呼びになるので、私も合わすべきなのかと思って……」
「それは……どう呼べばいいのかわからなかっただけだ。妹君とでも呼べばいいのか?」
生真面目に言うアドリアンに、エッダがブッと吹いた。
マティアスとテリィは何を言っているのかと、ポカンと口を開ける。カーリンは懸命に口を引き結んで耐え、エーリクは静かに目を閉じた。
ケラケラ笑ってアドリアンの背を叩いたのはオヅマだった。
「なんだよ、それ! 普通にティアって呼べばいいだろ!」
「そんなこと……」
「お前、時々突拍子もなくボケたこと言うよな。なんだよ、妹君って。俺だってマリーのことはマリーって呼んでるだろ。お前だってマリーにはマリーって普通に呼んでたじゃねぇか」
「マリーは、それが名前だろう!」
「は?」
「マリーは、マリーという名前なんだからそう呼ぶけど、ティ……ティアというのは、愛称じゃないか。勝手に呼んでいいものじゃない!」
「…………」
その場にいた全員が、その奇妙な理屈に言葉をなくした。
小公爵の思い込みに対して、まず声をあげたのは当のティアだった。
「あの、私は構いません。ティアと呼んでいただけたら、嬉しいです」
「…………いいのか?」
「はい。アドリアンお兄様」
「あぁ……わかった。君が許すなら、そう……呼ぶことにする」
「はい」
「…………」
・・・・・・・・・。
アドリアンが頷いてから、一同はしばらく待ったが、その愛称がアドリアンの口から出ることはなかった。
「…………呼べよッ!!」
オヅマが思わず叫ぶと、エッダが大笑いする。
ティアもはにかみつつ、微笑みかける。
アドリアンは困ったようにうつむき、近侍一同とカーリンはただただ笑いをこらえるのに必死だった。
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