第三百七十五話 虚実の戯場へ(1)

 アールリンデンの公爵邸北端にある塔の地下。

 昼間でも一切光が射すことのないその場所は、黴臭く、淀んだ空気が堆積していた。

 そんな陰鬱な場所に連れて来られたセバスティアン・オルグレン男爵は、鼻をレースのハンカチで押さえながら、ブツブツ文句を言いながら歩いていた。


「まったく……帝都から戻ったばかりだというのに……冬の準備もせねばならんというのに、わざわざ呼びつけてこのような場所に連れてくるなど……何を考えておるのか……」


 季節は既に秋から冬へと向かっている。新年の上参訪詣クリュ・トルムレスタンを終えて各々の領地に戻った領主は、冬に向けての準備に追われる時期であった。もっともファルミナにおいて、実質的にそれらの差配をしていたのは、セバスティアンではなく、息子のセオドアであったが。


 廊下に点々と灯された松明たいまつの明かり。そのわずかな光源すらも陰気に揺らめいている。空気さえも重いこの空間では、文句でも言わねば雰囲気に呑まれそうであったのかもしれない。

 一方で、父の後に続くセオドアは一言も発することなく、強張った顔で周囲を油断なく見回しながら歩を進める。天井から染み出したしずくがピトンと床に落ちる音にすら、いちいちビクついていた。


「まったくですね。わたくしまでも呼ばれる理由が皆目かいもくわからぬのですが……」


 オルグレン男爵の文句に答えるフリをしつつ、先頭で松明を持って歩くルーカス・ベントソンに不満をぶつけたのは、ハヴェルの腹心でもあるアルビン・シャノルだった。

 口調だけは慇懃であったが、堅牢な鎧に包まれた背にじっとりとした視線を向ける。

 ルーカスは振り向くことなく彼らに言った。


「これから、罪人に会ってもらいます」

「罪人?」

「一体、誰です?」

「何のために……」


 三人の問いにルーカスは答えず、鉄格子の扉が目の前で開いた。


「ようこそ」


 扉を開けたらしい男の声だけがした。

 三人は互いに顔を見合わせてから、ルーカスにうながされて扉をくぐる。細く暗い階段を降りると、冷たい石壁に囲まれた部屋に出た。地下の空気がよどむその部屋の隅には、拷問に使われるのであろう種々の道具が無造作に転がっている。

 壁の引掛鉤フックに架けられた二つの松明の間に、目隠しされ、両手足を鎖で繋がれた半裸の男の姿が見えた。


「はじめたまえ。トゥリトゥデス卿」


 ルーカスの声が冷酷に響く。

 暗がりから姿を現したのは、銀髪を短く刈った騎士らしき男だった。揺らぐ松明の明かりに照らされた顔は美しかったが、汚物のえた臭いのするこの場において、うっとりとした微笑を浮かべる姿は、どこか人ならざるものを感じさせた。

 もちろんこの男がヤミであるのは言うまでもない。

 ルーカスから松明を受け取ると、ヤミは鎖で拘束されているサルシムにゆっくりと近づけた。


「ヒッ……ヒイィッ!! 熱いッ、熱いッ!」


 サルシムは顔をできうる限り火から遠ざけようとするが、冷たい石壁に阻まれて、逃げることができない。ジュワリと髪が焦げる音がして、なんとも言えぬ臭気が漂った。


「では始めようか、サルシム。お前はアベニウス母娘おやこに支払われる生活費を横領していたな?」

「…………はい」

「そのことを知って、お前を脅してきたのは誰だ?」


 その質問は捕らわれてから、三人がやって来るこの日まで、何度も問われてきたことだった。当初は意味がわからず、ただただ自分の行った罪を素直に自白し、許しを乞うていたサルシムだったが、牢屋と拷問部屋を何度も往復するうちに、ようやく己の役割に思い至った。


「そ、そ……それは……セオドア・オル、グレン……公子」


 切れ切れにサルシムが言うと、即座に声をあげたのは当のセオドア本人だった。


「馬鹿な! そんなわけがあるものか!」

「一体、どういうことだ? セオドア!」


 オルグレン親子は二人して驚嘆し、騒ぎ立てたが、側にいたアルビンは静かに立ち尽くしていた。いつも薄笑いを浮かべた顔は、冷たくルーカスの横顔を見据えている。そのルーカスも腕を組んで、ヤミの拷問を受けるサルシムを無表情に見ていた。

 ヤミは尋問を再開したかったが、オルグレン家の二人がいつまでも騒いでいるのに、とうとうしびれを切らした。ズイ、とサルシムの髪を焼いた松明を二人に向けた。


「お静かに……まだ、尋問中です」


 自慢の巻き毛がもう少しで焼かれるところで、オルグレン男爵は怒鳴りかけた言葉を飲み込んだ。セオドアも二、三歩後退あとずさる。

 ヤミは再びサルシムに松明を向けた。

 鼻先に熱を感じながら、サルシムは必死にした。


「セオドア公子は私が横領していることを知って、秘密の代償として私に金の一部を渡すようにと……強要してきました。オルグレン男爵も、公爵様から見捨てられた女に、金を与えるなどもったいないと……私の行為を認めてくださいました」

「知らん! 私はそんなことは知らん!!」


 オルグレン男爵はすっかりあわてていた。なんとしても自分だけは、目の前の男のような拷問からは逃れたかった。


「やったとすれば、セオドアが勝手にしたことだ!」

「ふざけたことを……私がそのようなことをする訳がないでしょう!」


 すぐさまセオドアも否定したが、父であるセバスティアンは、その息子をかばうどころか糾弾する。


「お前はニーバリ伯爵の娘と結婚するから物入りだと、執事に頻繁にこぼしておったではないか!」

「それは……! そういう父上とて賭博で負けて、土地を売ろうとなさっておられたでしょう!? いったい僕がどれだけ尻拭いしてきたと……」


 セオドアの言葉に男爵は真っ青になり、言い終わる前にバシリと息子の頬を打った。

 ファルミナの土地は、数代前のオルグレン男爵が公爵家から下賜された土地である。そのため、売買においては公爵家の了承を得ねばならなかった。もし了承を得ずに勝手に売り払った場合、当然ながら公爵家からの罰は相当のもの ―― 下手をすれば家門断絶の上で、領地も爵位も没収される可能性もあった。


 いきなり父から殴られたセオドアは呆然としていた。オルグレン男爵もすっかり混乱し、激しく肩を上下させ固まっていた。


「由々しき事態ですな」


 それまで黙っていたルーカスが口を開くと、フ……と笑ったのはアルビンだった。


「随分と凝った真似をなさっておられますが、このような罪人の言葉が証言になるとでも?」

「さぁ……私としては、こうしたことを聞いた以上、当人に伺うのが一番だろうと思ったまで」


 ルーカスが曖昧に言うと、アルビンはますます口を歪めた。


「拷問によって得た自白だけでは、オルグレン家を責めるには不十分であろうと思いますが」

「無論。だからこそ、こうして非公式に招いた上で、オルグレン男爵とセオドア公子の言い分を聞こうかと思いましてね。なにしろ、先程本人方々も仰言おっしゃっていたように、セオドア公子は近くニーバリ伯爵家からご令嬢を迎え入れるにあたって、何かと物入りであるようですし、オルグレン男爵も賭博で大損したというのは、調べるまでもなく聞こえてくる話です。そうした事情があれば、横領の事実を知って脅迫し、金をせしめようとしてもおかしくはない」

「なるほど。だがオルグレン男爵もセオドア公子も、本件については冤罪であると申し述べている。これで事件の決着はつきましたね。この罪人が嘘をついているということです。まさか公爵の知恵袋と名高いベントソン卿が、我らに対して『』をせよなどという、無体なことは仰言おっしゃいませんよね?」


 アルビンの援護に、オルグレン親子も形勢逆転とばかりに言い立てる。


「そうだ! この男の方便だ! 自分だけが罰せられることが怖くて、嘘をついて我らにまで罪を被せようとしたのだ」

「このような嘘が通るものか!」


 アルビンはいつもの薄笑いに戻ると、丁重にルーカスに礼をしたあとに牢屋を出て行こうとして呼び止められた。


「お待ちください、シャノル卿。この男の罪は横領だけではございません」

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